― 求人情報 ―
数年前のことになる。
その日、俺が棋院の控え室に行くと、どことなくいつもと違う空気が漂っていた。
何事かと人垣を掻き分けるようにして部屋の奥へと進むと、そこには塔矢アキラが座っていた。
足を組んで、ラフな姿勢だ。いや、むしろ投げやりにも見える。
それだけでもひどく珍しいのに、塔矢は雑誌のようなものを眺めながら、いかにもつまんなそうな顔をしてやがった。
…ドキッとした。
塔矢が手にしている雑誌がどんなものか、はっきりと見えたからだ。
「塔矢…なに?お前、それって…」
「ああ、進藤か。ん?この雑誌か?そう、求人情報誌ってヤツだ」
「そんなんっ、見たらわかるっ…けど…どうしてお前がっ…」
自然と、周りが俺たち二人を遠巻きにするのを肌で感じた。空気が一気に冷えた。
「求人を見ていたんだ。当たり前だろう。しかし時給って、こんなもんなんだな。相場がわかって来たよ。普通のホールは安いが、ちょっと特殊な接客になると何割か上がる…」
「おい、塔矢…」
「ほら、執事喫茶みたいなイベント系のカフェになると、いいみたいだ。特に資格がいる訳でもなさそうだが…面接が厳しいのかな?」
「塔矢って………おいっ!」
「でもやっぱり、僕的にはIT関係が堅実かな。…まあ、顔がいいことを生かすには、接客が一番だろうが…」
「顔がいい」のところで、俺はカッとなった―――怒りでではない。恥ずかしさで、だ。
何故ならそれは昨日、俺が口にした言葉そのものだったから―――
頬が熱くなった。胸が軋んだ。
俺は咽喉がつかえたような息苦しさに耐えて、ようやく叫んだ。
「お前に必要ねえだろっ、棋士以外の仕事なんか探して、どうすんだよっ…」
「そうかな?誰かさんも昨日、探してたじゃないか。その辺に転がっていた求人誌を見て、俺は棋士に向いてないんじゃないかとか、他の仕事の方が成功するんじゃないかとか、何とか…」
「塔矢!」
涼しい顔で言い放つ塔矢の手から、情報誌を叩き落とした。
それからその腕を掴んで、睨み付けた。
すると。
その倍どころか、何百倍も強い光をたたえたキツイ目で、塔矢が俺を睨み返して来た。
「―――進藤。どんな気持ちがした?今、僕が棋士以外の職業について興味を示したのを見て、君は…君は何を思った!え?言ってみろ!」
段々語気が荒くなって、最後は掴んでいた腕を振り払った勢いと相まって、怒鳴り声になった。
その声が、真っ直ぐに俺の胸に突き刺さる―――
―――ここのところ戦績が思わしくなくて、格下のヤツにまで負けて、それで俺は荒れていた。
軽い気持ちで近くに置いてあった新聞を手に取ると、求人欄に目を通しながら、今、塔矢が言ったようなことをぼやきまくっていた。
気楽な酒の席だった。いつも以上に酔ってもいた。
回りも酔っ払いだらけだったから、半分同情、半分どうでもいい目で俺のことを見ていたんだろう。
酒の席での戯言は、あくまでも戯言。普通だったらそんなもん、まともに相手にする方がオカシイじゃんか。
…だけど。
だけど、塔矢アキラは違ったんだ。
最低で情けない俺のことを、塔矢ははらわたが煮えくりかえるほどの怒りを持って見ていたんだ―――
「昨日は酒が入っていたからな、僕も一応、我慢したが。今朝、目が覚めたら、もう我慢が出来なかった。…言いたくて。どうしても言いたくて―――君にっ!」
回りはこの状況にすっかり引いていたかもしれないが、どうでも良かった。
元々、俺たちはプライベートで打ったりはしても決して仲良しこよしじゃなかったし、直接対決がある時はどちらもピリピリしていることはよく知られていた。
最初は冷静、むしろ皮肉っぽかった塔矢がとうとう爆発したのだとわかり、俺はどうして塔矢がそんなことをするのかその意図を推し量ろうと、頭と心をフル回転させた。
塔矢の目をしっかりと見て、その強い光に攻め苛まれながら、俺は心を立て直した。
その時、俺が感じた胸の痛みはそのまま塔矢アキラの痛みだったのだと、改めて思い知った。
…口を開こうとした瞬間。
目の前にふっ…と、烏帽子の人物が見えるような気がした―――
「…塔矢、わかった。悪かった。もう二度と、あんな馬鹿なことは言わねえ」
俺は素直に頭を下げた。
これ以上、今、俺がすべきことがみつからなかった。俺に出来る全てだった。
一気に、辺りの緊張した空気が緩むのを感じた。
だけど、塔矢はすぐには動かなかった。
俺がゆっくり頭を上げると、そこにはさっきとうって変わって穏やかな塔矢アキラの顔があった。
まだ、少しだけ頬は上気しているが、目に険はなかった。
その時の俺は、塔矢の姿を神々しいと思った。背後に、淡い光を纏っているようだとも思った。
「打とうか」
塔矢の声に、誰かの声がかぶさって聞えたような気さえした。
「塔矢…」
「打とう」
「…あ、ああ―――うん!」
人垣が崩れ、俺たちも何事もなかったかのように碁盤へと向かった。
やがて指に馴染む石の感触が、俺の心を落ち着かせてくれた。
許されたんだろうか?
猶予を与えられた、くらいだろうか?
―――君の碁を見れば、君が本気で自分を見詰め直し、二度と自暴自棄な言動をしないかどうか、その決意がわかると思った―――
打ち終わった後に、塔矢アキラが俺にくれた言葉だ。
それは俺の中に深く沈み込んでは、俺の行く先を照らす絶え間ない光へと変わった。
そして数年後の今、俺は塔矢の挑戦者になり―――タイトルを奪った。
塔矢は茶目っ気たっぷりにこう言った。勝負と、それに続く全ての嵐が過ぎ去った後の、凪いだような空気の中で、だった。
「あれから君は、二度と求人情報なんて気にもしなかったんだろうな。…わかる」
回りの誰もが訳がわからず、ポカンとする中。
俺だけが、その言葉の意味を噛み締め、俺だけが、添えられた塔矢アキラの極上の笑顔を胸に刻む権利を持っていた。
こんな風に塔矢と俺は、互いの心の深い部分に踏み込むことを許された者同士へと、それぞれの想いを育てていったのかもしれない。
それが世間で言う友情なのか、愛情なのか、或いはそのどちらにもカッチリとあてはまらない、捉えどころのないものなのか。
―――二十三歳の俺にはまだ、わからない。
ただひとつ。
塔矢アキラが俺の人生から二度と去ることのない大切なヤツであることだけは、疑いようがなかった。
某さんが妙に求人情報を気にしていらしたので。ネタ提供、ありがとう(笑)
ヒカルとアキラの距離感、こんな感じもいいなと思う。