― キスと毒薬 ―









進藤が手を差し出す。手の平を上に向けてゆっくりと開く。
そこには、何の変哲もない白い錠剤がひと粒。

「ありがとう。君はもう?」
「俺は今さっき、飲んだ。・・・ほれ、水。」

彼の手から受け取ったその錠剤を口に入れ、僕は一気に水で流し込んだ。
乾いた咽喉を、冷たい水があの錠剤を運びながらスルスルと流れ落ちてゆく感触。

飲み終えると僕は一息つき、進藤の顔を見た。
そこには既に、対局に向かってテンションを高めつつある勝負師の目が光っていた。

僕も。
僕ももうすぐ、その目になる――――






僕らが体の関係も含めて愛し合うようになったのは、十代の終わり頃だった。
すぐに夢中になった。他人と肌を重ね、快感を貪り合うことの悦び。若い肉体は貪欲に相手を求めた。

愛してる。

その言葉すらも永遠に続く真実なのか、この欲望を飾り、後ろめたさを誤魔化すための口実なのかわからないまま。

愛してる。

体を重ねるたびに交わす言葉は、僕の胸の底に何かを降り積もらせていった。



先に調子を崩したのは、僕だった。
プライベートで打つ時は何ら問題がないのに、公式戦では進藤に勝てなくなった。全く。
正確には雑念が多過ぎて全力が出せない。進藤相手にそれでは、歯が立つ筈はないのだ。必然、僕は負けることになる。
焦り、苦しみ、もがいた僕は別れた方がいいかもしれないと進藤に切り出し、そこへ来て彼もまた、つまずき始めたのだった。

当時の新聞は今でも読み返す気になれない。

『竜虎、双方牙が折れたか』
『失速する竜に、咆哮を忘れた虎』

そんな文句が踊り、僕らはあちこちで星を落とした。
二人一緒にそうなったことが果たして僕らにとって良かったのか。悪かったのか。
僕らは傷を舐め合うように、ますます互いに縋りつくしかなくなっていった。

「やっぱり別れよう。一旦、君と距離をおきたい。そうすべきなんだ。」と切り出すものの、進藤に泣きながら触れられるとその場所から溶け出すように呆気なく僕は崩れ落ちた。
時に彼は嫌がる僕を無理矢理組み敷き、貪り、僕の肉体に残した傷を見ては自己嫌悪に沈んでいた。



そんな時だった。進藤がこの薬を持ち出したのは。

「怪しい。そんなもの飲む気になれない。」

当然、最初は突っぱねた。
むしろこんな怪しげなものを探して来た進藤の精神状態の方が、僕は心配になった。

「大丈夫。俺が何度か試してみたから。対局に差し障りはなかったぜ。・・・っつか俺、お前とのことがスッポリ頭から抜け落ちてた。終局後にお前から電話もらっても、すぐには記憶が戻らなかった。」
「本当、に?」
「ああ、マジ。半日くらい経ってからかなぁ?あ、俺、塔矢としたい、すぐに寝たいって思った。そんでその時になってやーっと思い出せた、お前と俺とが恋人同士だったってこと。」
「そんなこと・・・信じられない・・・。」
「お前だって変だなって思わなかった?俺ら、今までだったら大一番の後は必ずセックスするじゃん?何が何でも、お前に会いに行くじゃん?ちゃんと思い出してみろ。会話だってどっかちぐはぐだったろ?」
「先にセックスを持ち出すな・・・。」
「ワリイ。でも、今更綺麗ごと言っても始まらないだろ。俺は興奮するような碁を打った後は、必ずお前が欲しくなる。ヒドイ時は打ちかけの最中、タバコ吸ったりするだけでお前とのセックスがフラッシュバックする・・・。」

それは僕も同じだった。
こんなに溺れるとは。自分で自分をコントロール出来ない日が来るとは。
天才だサラブレッドだと騒がれても、所詮僕だって恋に翻弄される普通の男だったのだ。

そして目の前の愛しい、そして同じくらい憎い彼もまた、僕と同じように――――



「これを飲めば丸一日は恋人のことを忘れていられるんだな?」

進藤が嬉しくもないくせに、嘘っぽい微笑みを浮かべて見せた。僕に引導を渡す笑顔でもあった。



その薬は効いた。僕の予想を遥かに上回り、劇的に。
僕は進藤が目の前に座っても、何の感慨も覚えなかった。進藤の顔や仕草をはっきりと思い出せないくらい、僕はただ盤面に吸い寄せられていた。

この薬を知るまでの僕らは、終局すればすぐさまメールをやり取りし、待てない時はトイレや物影で口付けたりもした。
危険な橋を、何度も渡った。そしてそれが興奮を誘い、僕らは秘密の恋に酔った。
そうしなければ全身が尖った欲望で痛いくらいの自分たちを、宥められなかったのだ。

それなのに。
その薬を飲んだ日は進藤と自分が恋人同士であることを失念し、だから進藤に対して会いたいという渇望や性衝動も起こらなかった。

驚くよりも何よりも、有難かった。
特に、対局中に進藤のことを考えなくて済むのは本当に有難い。
恋人相手だから腑抜けの碁しか打てないのではない。そんなヤワな精神力じゃない。そんなことでは碁を冒涜していることになる。
僕は誰だ?塔矢アキラじゃないか!

けれど結果的に勝てないという厳しい現実は、想像を絶するほどの焦燥感に変わっていった。



この薬によって僕らは解放された――――得体の知れない心の縛りから。



すると僕らの碁は復活を遂げた。
僕は久しぶりに進藤相手に会心の碁を打ち切り、彼と二人で打った内容も文句なかった。
進藤も、僕も、それぞれ別の対局者と打つ方が断然多いが、そういう時も本来の調子を取り戻せた。

薬に頼っているという罪悪感は、不思議なくらい湧いて来なかった。
スポーツとは違い、筋力を高めたり興奮したりする訳ではない。ただ、不思議な作用によって目の前の恋人に性欲を感じないどころか、恋人であるという事実すら完全に目隠しされ、意識から消える。
時間が経てばその効果は完全に消失し、副作用もなかった。

むしろ、効果が切れて抱き合った瞬間の悦びは筆舌に尽くしがたかった。
愛し合って来た僕らの歴史は一気に巻き戻され、忘れていた時間を惜しむように狂おしく体を繋げた。

進藤がその薬をどうやって手に入れているのか。正体は何なのか。

何故だか訊いてはいけない気がして、僕は詮索しないままその薬に頼ることを自ら選んだのだった。



こんな風に全てが上手くいっていると、進藤も僕も信じて疑わなかった。






だから僕は心底驚いたのだ。薬の効果が短くなって来たことに。

対局の最中。
僕は相手が進藤であること、進藤と僕が数日前に愛し合ったことが突然思い出された。

きっかけは手だった。
進藤の手が僕の見下ろす盤上を横切った瞬間、その手が僕の男性部分を握っていた映像が蘇ったのだ。
僕はパニックに陥り、目の前が真っ暗になった。意識が遠のきそうになる。
既にヨセに入っていたのでなかったら、持ちこたえることが出来なかったかもしれない。



「進藤!どうしようっ・・・薬が切れた、効かないっ・・・。」
「は・・・塔矢?」

進藤が驚いて僕を見詰める。
まさに鳩が豆鉄砲を食らったという言葉通り、彼のまんまるい目が見開かれ、そこで僕ははっとなった。

そうだ・・・彼の方はまだ薬が効いているのだ!僕が恋人であることを覚えていないのだ。・・・正確には、まだ思い出していない、のだ。
薬のこと自体も、きっと今の記憶にはない。

一度は摘んだ進藤の袖を離す。そして深呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。
それはほんのわずかな時間だったが、進藤が哀れみに満ちた表情で僕を見ていたような気がした。

「塔矢、顔色が悪い。大丈夫か?俺んちの方が近いから寄ってく?」
「あ、ああ、ん・・・そうさせてもらおうかな、検討も出来なかったし。」
「うん!お前がうちに来るの、久しぶりかな?」

嘘だ。嘘だよ。そうじゃない。
僕らは数日前も君の部屋で、あらゆる体液を混じり合わせながら抱き合ったじゃないか。

しかし目の前の進藤は薬が切れる前の彼で、その瞳は碁以外の欲求など一切ないと告白していた。



「ああ、んぁ・・・・・・イイッ・・・そ、こ・・・もっと、強く・・・してっ・・・してしてっ・・・・・・ああぁ、イきそ・・・っ、っ、っ―――」

固くなったものを進藤の口内で吸われ、中には彼の指が入り込んでいた。何本?多分二本と、それから時折入り口をなぞる、三本目?
慣れた舌はすするような音を立てて、僕の感じるところを刺激する。
指は中でバラバラに動きながらも焦らすようにポイントをかすめ、一番奥まで届く中指がはっきりと曲げられた時、僕は堪えきれずに彼の口内に放っていた。

進藤の部屋に着いてゆっくりと検討をしているうちに、彼の方も薬が切れた。
不意にかち合った視線。既に欲情している瞳。石がバラバラと散るのも構わずに引き倒された。
ラグの上でどろどろになるまで愛し合い、互いの体を引き摺って行っては浴室でも同じことをしたし、された。
先に薬が切れていた僕の方がまだ冷静で、進藤の方がひどく乱れていたように思う。

何も言わせない。聞きたくない。

進藤はそう思っているかのような激しい抱き方で僕をめちゃくちゃにし、疲れ果てた僕はベッドに倒れて指一本動かせず、ただ溜息をつくことだけしか出来なくなった。

「今度から・・・一錠じゃ、効かない、かも・・・二錠くれる、か・・・。」

必至でそれだけ搾り出した僕に向かって、進藤は「でも体に悪いかもしれない・・・一応、俺が試してからにしようよ、な?」と、心配そうな声で言った。



ところが悲しいことに、薬の効果はその日から右肩下がりで落ちていった。

そしてとうとう、最も恐れていたことが起きた。
対局の最中に手が乱れ、集中力を欠いた。進藤が欲して欲しくて、どうしようもなくなった。
進藤も僕の異常に気付き、僕らはあろうことか打ちかけの最中にホテルの部屋に縺れ込んで互いの熱を解放し合った。

「昼メシなんて食ってられるか!お前――――お前が欲しいっ!」
「しんどっ・・・はあはあっ・・・やっ、も、すぐに、出した、い・・・咥えてえっ・・・!」

悲鳴のように訴えると進藤が僕のズボンのチャックを下ろし、すぐに取り出したそれに噛り付いた。
まだ柔らかいかと思っていたのに、エレベーターで監視カメラに見られるのもかまわずディープキスを交わしているうちにそこは半勃ちになったらしい。

でもこれじゃ僕は彼を悦ばせられないと、彼をベッドに押し倒し向きを調整し、同時に互いの昂ぶりを慰め合った。手と口をせわしなく動かせばそれは呆気なく怒張し、ほぼ同時に精液をほとばしらせた。

乱れる息を整え、口をすすぎ、衣服を直し、うつろなまま階下へ降りて行く時には、この対局が悲惨なものになることは容易に予想出来た。
午後のためにと進藤がくれた新しい錠剤を飲んだけれど、それはもう役に立たないことが僕にはよくわかっていたのだ。








「別れて欲しい。」

このままでは駄目だ、僕はまた君に勝てなくなる、そんなのは困る、と言うと、進藤は即座に首を振った。

「嫌だ!そんなの許さない、俺は絶対にお前と別れない。お前だってほんとは俺と別れるなんて出来ないくせにっ!」
「だってあの薬が効かなくなったんだ。元々、ああいう胡散臭いものに頼った僕が弱かった。いけなかったんだ。探して来てくれた君には悪いけど・・・。僕は一から出直したい。碁に専念して、力をつけて、もう一度君と向き合うしか克服する方法はないんだ。」
「碁に専念って・・・まさかお前・・・。」
「中国に行くよ、一年か、二年か・・・武者修行して、どんなことにも負けない精神力をつけて。」
「馬鹿なこと言うなっ!俺たちが一年も離れてなんかいられるかっ!」

怒鳴り声に、さすがの僕も少しだけたじろぐ。
それを見た進藤は、今度は声色をかえて切々と訴え始めた。

「塔矢、わかってるだろ?俺たちはずっと一緒だった・・・仕事だって一週間も離れたことはなかった・・・俺はいつでもどこでもお前のいるところへ駆けつけたし、第一俺たちはセックスしないままで眠ることなんて一度もなかった・・・。」

お前はこんなに深い俺たちの絆を、自分から断ち切ることが出来るのか?



慟哭――――進藤の心は哀しみに荒れ狂っていた。
その目を見ていたら引きずり込まれて二度と浮き上がっては来れなくなりそうで、僕は卑怯にも顔を背けた。

けれど彼は僕を離さなかった。
どうしても嫌だ、離れたくない、そんなことしたら俺がおかしくなると泣き叫ぶ。

僕はわかっていた。
進藤はそう言いながらも強い。きっと彼の方が僕よりも鮮やかにこの難局をさばいて見せるだろうとの予感は、僕を更に苦しめた。

「お前、まさか中国で碁だけじゃなくて・・・女を作ろうとでも・・・俺とのこと、全部なかったことにして、普通に恋愛して、結婚してって・・・そこまで思ってるんじゃ・・・。」

低い声。地の底から響くような声は、とても普段の彼からは想像出来ない。
ゆらり、と。進藤は立ち上がると、僕を引っ張り上げて抱き締めた。強く、強く。本当に縛り付けるように、強く。

そして次に彼が放った言葉は僕を凍りつかせ、同時に、ことの重大さを知らしめた。

「塔矢・・・また、薬を探して来るから・・・。」

・・・えっ・・・薬?また、薬だって?

「今度はもっといい薬。強い・・・一度飲んだらしばらくは俺との仲を思い出さない、完全に忘れられる薬を――――」
「進藤っ!そういうことじゃないんだ・・・僕が間違っていた、最初から、全部、間違っていたんだ・・・。」
「嫌だ嫌だ、塔矢っ・・・・・・・・・アキラ・・・ずっと俺のものでいて・・・傍にいて・・・。」

泣きじゃくる進藤の鼓動を感じているうちに、僕は次第にわかって来た。
それは皮膚からジワジワと侵入して来るみたいに、僕の全身に回ってゆく。染み渡ってゆく。
愛情がこんな風に人の中に入り込んで癒そうとするものかと実感した時、一体僕はどれだけ進藤に愛されているのだろうと喜びに酔いしれた。



・・・そうか。
そうなんだな・・・進藤、今、僕はやっとわかったよ・・・

あれは、薬なんかじゃなかったんだ。少なくとも、恋人の存在を一時的に忘れる摩訶不思議な薬などでは。
そして君はそれをわかっていて、自分にも効いているふりをしていたんだな。

その途端――――僕は自分が長い長い彷徨の末に、ようやく精神のバランスを取り戻したのを悟った。

壊れていたのは、矢張り僕の方だった。あんな薬をたやすく信じること自体が、いい証拠だ。
そしてバラバラになりかけていた僕を案じ、何とかしようと考えた彼はあの「薬」を生み出した。
もしかしたら、「これは効いた」と僕に告げることで暗示をかけたり、或いは僕にその薬を渡すたびに催眠術みたいなものも併用していたのかもしれない。

そうやって彼は僕を守り続けたのだ。
全ては僕のため。僕を愛するがゆえ。



「愛してる・・・アキラ、愛してるんだ・・・お前のためなら俺、どんな薬だって探す・・・どんなに高価でも、手に入り難くても・・・カウンセリングや他の方法も、探してみる・・・だから・・・。」
「ヒカル・・・僕も愛してる・・・愛してる・・・愛して・・・。」

――――決めた。
君から逃げるのも、自分の弱さから目を背けるのも止めよう。
今、ここで取り戻した現実を受け入れて、僕は生きよう。

もう、あの薬は効かない。
僕はまた、進藤ヒカルに連敗するかもしれないという強迫観念に囚われ、自分を見失い、迷走を繰り返すかもしれない。

でもいいんだ。
何年かかろうとも、僕はそれを克服してみせる。
一年・・・五年・・・いや、十年でも二十年でも・・・進藤の傍で打つことで、いつか、きっと、必ず――――



僕は進藤の背中深く腕を回し、そこを優しく撫でた。そして出来るだけ甘えた声を出した。

「ありがとう、ヒカル・・・じゃあお願いするよ。探してくれるかい?僕の為に、もっとよく効く薬を。」
「アキラ!」

僕らはその日も片時も離れずに愛し合い、四本の素足を絡め、手を握り、互いの髪の匂いを嗅ぎながら眠りについた。















「塔矢。」

進藤が手を差し出す。そこには錠剤ではなく、一本の小瓶が握られている。

「今日もありがとう。君はもう?」
「うん・・・だからお前も早く。」

進藤が微笑む。僕も微笑み返しながら、その小瓶を開けると咽喉奥に流し込んだ。

「んー、俺、今日は何かいつも以上にワクワクしてる。絶対に負けねえから!」
「僕だって自信がある。覚悟しておけ。」
「ふふん・・・新しい薬、ちゃんと効いてるみたいじゃん?」

ご機嫌な声には答えず、僕は空き瓶を机に置くとドアへと向かった。



――――そう。これは毒。
一時、僕の心からも体からも記憶からも恋人の存在を消し去り、十九路の世界だけに御霊(みたま)を捧げるための、毒だ。
本物だろうが偽物だろうが、そんなことは関係ない。
僕は進んでそれを飲み干し、数時間後には恋人の甘いキスで解毒される。ただ、それだけ。



僕らはこの上なく幸福だった。











NOVEL