― 禁忌 & TABOO ―







     「禁忌」



 この辺では一番高い建物であるこのオフィスビルの屋上に昇って来たのは、もう二十年以上ぶりになる。建て替えられることなく、よく今迄あったものだと思うが、どうやら壁の色は塗り替えられているようだ。無理もない。
 あの頃僕らは、出来たての当時モダンなデザインで話題になっていたこのビルが、まるで僕らの為にあつらえた冒険の舞台のように思えて、途中で人に見咎められることなくどれだけ速く屋上まで昇れるかを試したりしていた。
 屋上からの眺めは、最高だった。
 明るいうちは、東京タワーの朱色のとんがりが青い空に突き刺さっていた。
 夕暮れ時には、オレンジやパープルのドレープをひろげた空の海に町並みが沈んでいた。
 でも、一番僕らの心をウキウキさせたのは夜景。特にクリスマスのこの時期だ。老舗デパートの屋上にしつらえられた巨大なクリスマスツリーはその頃から風物詩となり、まさにバブル期入り口のこの国の浮かれ具合を象徴していた。それがこの屋上からは実によく見えた。間に何も遮るものがなかったからだ。
 でも・・・今は違う。
 矢張り二十五年の歳月は、厳然とそこに横たわっていた。いくつかの建物に部分、部分が隠され、パッチワークのようだ。かろうじてツリーの天辺が見えているに過ぎない。

「何だ・・・もうあのツリーは殆ど見えないじゃないか・・・。」

 自分が心の中で呟いていたセリフを声に出して言われ、驚いた。

「びっくりした!もう来ていたなんて、気が付かなかったよ・・・。」

 振り返ると、緒方精次がコートの襟をかき合わせながら立っている。
 僕はこの寒空の中、本当にここまで彼が出向いてくれたことに密かな感動すら覚えた。

「全くこのクソ寒い中、こんな所に呼び出すなんて・・・一体何なんだ?白川。」
「・・・この前、進藤君と塔矢君と一緒に飲んだそうだね?君の例の奇行はまだおさまっていないようだ・・・。」
「ああ、進藤はお前のおとうと弟子だったな。聞いたのか?しかしあの晩はあいつらにしこたま飲まされて、大した話は聞けなかったなあ・・・。」
「そろそろ引導を渡されたいんじゃないかと思って・・・。」
「俺がか?ふん・・・確かにああいう告白ごっこにも飽きてきたかもな。しかし・・・お前が引導を渡してくれるつもりだとは・・・。」
「僕では役不足?」
「・・・さあな・・・何か俺を宥める秘策でも?」
「あるよ。とっておきの打ち明け話がある。だから呼んだんだ。きっとこの話を聞けば、君もこんな馬鹿なことはやめてくれるだろうと思って。」

 緒方の顔に動揺の色が浮かんだと思った。対局中にも見せる、微かな口元の歪み・・・。眉間の小さな皺・・・。

「きっと、もう人の秘密なんて知るもんじゃないと、懲りることになるとでも?」
「・・・多分ね・・・。」

 僕らはクリスマスツリーに背を向けると今度は手摺にもたれて、暫く沈黙した・・・・・・。
 
 緒方碁聖、十段がここのところ、誰彼かまわず酒を奢っては秘密を聞き出すのを楽しんでいるという、良からぬ噂が立っていた。
 本人に大して面白い話がなければ、誰か他人の秘密でもいいからと、高い酒をすすめながらねちこく訊いてくる。そして、何か一つでも緒方を面白がらせるネタが出てくるまでは、解放してもらえないらしかった。
 被害にあった棋士連中の間で緒方の評判は悪く、彼らの泣き言を聞くにつけ、このまま放置してはおけないだろうと思っていた。
 しかも最近被害にあったのは、緒方のおとうと弟子である塔矢君と、僕と同じ森下先生の研究会に来ている進藤君の二人だというから、もうこれは本当にいけないと意を決したのだった。

「煙草、吸ってもいいよ?」
「ああ・・・じゃあ、そうさせてもらうか。」
「ここに来るの君も二十五年ぶりくらい?」
「そりゃそうだぜ。いつだったか忘れたが・・・最後にお前と来て以来だ。この駅は俺が緒方の家を出るまでは棋院の行き帰りに通ってはいたが・・・。このビルまで来ることはとうとうなかったな。」
「そう。僕もだ。・・・実家の方は今、どうなの?」
「とっくにじいさんもばあさんも死んじまったさ。親父と同じ墓に入ってる。」
「そうなの?ちっとも知らなかった。お葬式とかしたんだろ?棋院でも話題にならなかったから・・・。」
「いいんだよ。どっちの時も内輪でやった。俺がタイトルとる直前に続けざまだったから、あいつらにそれを見せつけられなかったのが、唯一の心残りかな・・・。」



 ―――緒方の生い立ちは、複雑だった。
 殆ど誰も、多分塔矢先生とその周辺のごく一部しか知らないその家庭環境を僕が知っていたのは、僕ら二人が院生時代に親しくしていたからだ。
 僕の方が緒方より一つ年上だったが、同じ頃に院生になり、乗換駅のここまで一緒だったこともあって、いつの間にかつるむようになっていた。
 その頃・・・中学時代の緒方精次は、僕以外のヤツとは馴染まない、一匹狼的な孤高の空気をまとっていた。碁も抜きん出て力強く、院生ではトップクラスに君臨していた。
 その上・・・誰もが振り返るような美少年だった。
白い肌に色素の薄い瞳、滑らかな唇は口角がきゅっと上がり、染めたわけでもないのに明るい色のさらさらした素直な髪は、今よりもかなり長めだった。ちょっと見は女の子でも十分通ったと思う。
 外国の血が半分入ってると聞かされて、ああ、成る程と納得したものだ。
 僕らが棋院の帰りにこの駅の周辺や、このビルでうだうだと時を過ごすうちに、彼は少しづつ僕に自分のことを語ってくれたのだ。
 まさに、この手摺にもたれて、今と同じポーズをとって、僕らは何時間でも他愛の無い話をした。その中に、時々自分を育ててくれている祖父母への怨嗟のような言葉が混じるのを、僕はいたたまれない思いで聞いていた。
 緒方の父は彼が小さい頃に他界し、ドイツ人の母親は旧態依然とした緒方の実家の雰囲気に馴染めないまま、緒方を置いて、母国へ帰りやがて亡くなった。
 両親に去られた彼は、厳格な祖父に碁を教わった。アジア的な碁に執着し、強くなることで、自分のアイデンティティを固めようとしていたのだろう。
 彼の祖父母は、いつまでも彼の母親の悪口を言い続け、果てはそんな女性を選んでとっとと亡くなってしまった自分らの実の息子のことまで恨んでいたと、緒方は僕に語った。
 彼が、一刻も早くプロになって緒方の家を出たがるのも、納得出来た。
 ごく普通の家庭で育った僕には、彼の境遇は重たすぎてどう反応していいかわからなかったから、ただ聞いているだけしか出来なかった。
 だが、その態度故にかえって彼の信頼を得ていたのかもしれない。

「・・・ねえ、緒方。君はお母さんの形見の指輪がなくなった時のこと、覚えている?」
「指輪?・・・何だ、突然・・・もしかして・・・告白ってそのことか?」
「・・・ああ・・・。今でも覚えてるんだ。君が中学生のくせに指輪をしていて・・・しかも左手の薬指だった。銀色で、細くて・・・結婚指輪だったんだよね?人に何とからかわれようと決してはずさなかった。」
「はずすと知らないうちになくしそうで、怖かっただけだ。」

 たかが十五歳やそこらで、周りにからどんなにからかわれようが睨まれようが、どうしても失いたくないものを抱えていた彼の孤独さを、その指輪が表していた。

「シンプルだけど綺麗なリングで・・・君にはよく似合っていたよ。」

 そうかぁ?・・・と投げやりな声で応えた彼の横顔に呟いた。
 だからあの指輪を、僕は元から嫌いだったのかもしれないな・・・

 その指輪が緒方の指からはずされ、永遠に戻って来なくなったその日を、僕は一生忘れないだろう―――



 プロ試験が間近に迫っていた、緒方が十五歳、僕が十六歳の夏だった。
 その日、棋院からの帰りが思いがけなく遅くなり、もうすっかり夜の顔に変貌した駅前を二人で歩いていたら、大学生くらいの三人連れに何かの拍子にからまれ小競り合いになった。
 そのうちの一人が緒方の指輪に目を付けた。

「コイツ、生意気にもここんとこに指輪なんかはめてやがるぜ!?おい、高そうな指輪じゃんか?」

 そして一人が緒方を羽交い絞めにし、もう一人がその指輪をはずそうとした。僕は丁度、もう一人のヤツと揉み合っていて、緒方が狂ったような叫び声を上げた時に、初めて何事が起こったのかわかった。

「やめろっ!それだけは返せーっ!」

 彼が渾身の力で二人を振りほどいて手を伸ばした、その瞬間・・・・・
 リングは駅前の明るさの中から弾き出され、銀色の奇跡を描きながら、遠くへ飛んでいった。

「あああぁ・・・っ!」

 緒方の切実な悲鳴が、僕だけでなく、絡んできた三人組をもたじろがせた。
 直後に交番から騒ぎを聞きつけた警官が駆けつけ、三人組は僕らを置き去りにして逃げ出した。
 そして、緒方は警官に何を聞かれても答える意思は全く無いようで、一心不乱に指輪を探し始めた。
 僕が代わりに事情を説明し警官は去って行ったが、緒方はなかなかみつからないそれを探して、地べたに這いつくばっている。駅前を行き交う人々の怪訝な顔などお構いなしだ。その真剣さは僕にも痛いほどわかるから、一緒になって探すことは恥ずかしくはなかった。
それなのに。
 僕が先にその指輪を見つけたことは、神様のいたずらだったのかもしれないと、今なら思える。



 あの時僕は、試されたのだ―――



 石畳の隙間に入り込んでいた指輪を拾って、離れた所にいた緒方の元へ向かった。そして、「あったよ!」と声をかけようとした瞬間に、緒方の顔を見て・・・・・・心がぎゅっと何か冷たい塊のような魔の手に鷲掴みにされ、凍りついた。
 緒方は、それまで見せたことのない狂気の形相をしていた。
 茶色の髪は汗でまだらに額や頬に張り付き、眼には何ものかにとりつかれた人間の、暗い光が揺れていた。
 その顔が怖かったのではない。僕や警官のことが眼中に無いのが、不快だったのでもない。緒方の様子は、何かに夢中で気が付かないとかいう、そんな単純な表情ではなかった。
 彼の心を占め、冷めている筈の彼を動かすことが出来る、唯一のもの。
 それは、母親への強い思慕だろうが、思い出への執着だろうが、何だろうと同じだ。
 ―――この僕でないのだとしたら!
 それは、激しい独占欲から生まれた嫉妬の感情だった。
 そして・・・
 僕は、見つけた指輪を緒方に見せることが、とうとう出来なかった。



「・・・あの時、不良に絡まれて飛んでった指輪、結局見つからなかったよね?」
「ん?ああ・・・そうだったな。もう忘れてたよ。二十五年も前だぞ?」
「あれ、僕が拾って・・・・・・隠した。」
「お前が?・・・どうりで見つからないわけだ。そうか・・・。」

 お前だったとはなあ・・・と、煙草の煙と一緒に吐き出すように言う。僕が予想していたほどの衝撃は与えられなかったみたいだ。

「今更だけど・・・あんなに大切にしていたものを、本当にすまなかった。どんな罰でも受けるよ。」
「ふん・・・遅かれ早かれ、あの指輪はそういう運命だったさ。いつまでもなくならないものなんて、かえって不気味だ・・・。」

 お前も、もう忘れてしまえと言うが、本気でそんな風に思っている訳じゃないのだろう。きっと、僕に対する彼流の優しさなのだ。

「ところで・・・じゃあ、あれはその後どうしたんだ?」
「その晩のうちに近所の川に捨てた。・・・何度も、何度も・・・君に告白しようと思ったんだけど・・・君の落胆振りを思うと・・・とても恐ろしくて言えなかった・・・。」
「そうか。川にね・・・。まあ、相応しい場所に眠っているのかもしれんな。魚に食われてたりしてな。」
「悪いけど・・・魚が住めるほど澄んだ川じゃないよ。」
「じゃあ、もしお前に告白されたとしても、川に入ってまで探そうとはしなかっただろうよ。」

 ―――でも、僕は知っていた。
 緒方があの晩から四日続けてこの駅に来て、うろうろと諦めきれずに探していたことを・・・。僕も気になって、時間が出来たらこっそりと見に訪れていたから。
 五日目に大雨が降ってやっと彼も踏ん切りがついたようで、駅に現れなくなった。
 これで少しは夜、眠れるようになったと安堵したことも。そしてそんな自分を、なんて醜い最低の人間なのかと嫌悪したことも。
 その後すぐに始まったプロ試験の重圧感の中で、薄れていった。

「・・・どうして僕がそんなことをしたのか・・・訊かないんだね?」
「理由なんか、あるのか?気まぐれだろう?」

 言葉も煙草も同時にうざったそうに投げ捨てた彼を見て、もっと大事な告白については、はぐらかそうとしていることを直感した。
 でも、今夜は僕も引けない。今告げなければ、一生機会はないかもしれない。

「ねえ、緒方。もっと驚くべき告白があるんだ。多分君、腰を抜かすかもしれないなぁ?」

 僕は彼をリラックスさせようと、わざとおどけた調子でその目を覗き込んだ。

「他の人がいる時には、とても言えない話だから・・・。」
「・・・・・・・。」
「・・・僕がどうしてそんなひどいことをしたかというと・・・。」

 僕と同じように、緒方も歳をった。
 しかし、相変わらずガラス玉みたいなつるんとした瞳の美しさは、メガネの奥に隠しても隠し切れないと思いながら、言葉を続けた。



「君のことが好きだったからだ・・・・・。」



「友達としてという意味じゃないよ、わかるだろう?・・・あの指輪を探している時の緒方精次は、僕以外の何かに囚われてて・・・僕をまるでそこにいない無価値なもののように見ていた。・・・だから僕は、あの指輪の存在を消してしまいたかった・・・。」
「なんだ。そんなことか。お前の気持ちなんてとっくに知ってたさ。」
「・・・え?」

 ・・・たっぷり十秒くらいは思考が停まり、緒方の顔を見つめていた。
 そして、僕をフリーズ状態から救ったのも、緒方の次の一言だった。

「告白のお礼に俺もお前のこと、驚かせてやろうか。あの頃、俺もお前が・・・白川道彦君が好きだったよ。勿論友達以上の意味でな・・・。」
「え、ええぇーっ!・・・からかってるのか?それとも・・・仕返しのつもり?」
「お前、気が付いてなかったのか。そうか・・・いや、それで良かったんだろうよ。」
「ちょ、ちょっと待って・・・・・・本当に?」

 自分でも情けない声だと思いながらも、取り繕うことが出来ない。
 緒方は二本目の煙草に火を点けた。それが、さもうまそうにしているものだから、してやったりという気分なんだろう。
 まさか、今夜こんなことになるなんて・・・・・。

「もっとも、俺がその気持ちに気が付いたのは、プロ試験に俺があの年合格して院生を卒業して・・・お前と滅多に会えなくなってからだな。だから、お前が気が付かなかったのも無理はないさ。」

 僕もそう・・・緒方と同じだったのだ。
 あの指輪の一件以来、プロ試験もあって僕らは疎遠になっていた。というより、僕が彼を、自分の犯した罪故に避けるようになったのだ。
 時期が時期だっただけに、そんなに不審に思われること無く、僕らは離れていった。次の年、一年遅れで僕がプロになった頃には、不自然でないほどの接触はあったが、個人的な交わりはなくなっていた。
 その数年間が、僕にとっては一番辛い時期だった・・・。
 もう実際の緒方に会うことは殆どないのに、夜、一人になって思い出に浸る時や、偶然棋院で彼を見かけた時密かに疼く胸に、それが罪悪感からだけでなく、男である彼を、男である自分が恋焦がれているからだという事実に思い至って、ますます近寄れなくなった。

 この想いは、禁忌だ―――

 決して悟られてはいけないし、いつか思い切らなくてはいけない。
 だからこんな二重に罪深い自分は、緒方の傍に存在することさえ許されない。
 それにもし彼に気取られようものなら、間違いなく気味悪がられ、嫌われるに決まっている。
そのことを想像するだけで、絶望に身震いするほどだった・・・。

「・・・じゃあ、僕は片思いだとばかり思っていたけど・・・僕は・・・僕らは・・・両思いだったのか?」
「ははっ!両想いなんてかわいい言葉、久しぶりに耳にしたな!男同士でもそう言っていいのなら、そうだったんだろう?」
「でも・・・お互いそんな素振りは・・・なかったよね。」
「それで良かったんだ。男同士で、棋士同士で、タブーもいいところだ。決していい結末は迎えなかったさ。」
「君は、あっさりしているな。後悔もなさそうだ。」
「ないね。好きなヤツをいばらの道に引っ張り込むこともないだろう?若い時には、強いライバル心とか相手への関心が、異常に肥大して恋みたいな感情になることがあるんじゃないかな。」
「本当の恋ではなかったということか?」
「恋心に本当も嘘もあるのか?あるのはその瞬間の感情だけだろう。」
「・・・でも僕は、君の左の薬指を見るたびにキリキリと胸が痛んだ。そこにある筈のものを奪った自分が・・・死ぬほど許せなかった。」
「・・・・・・・。」
「薬指の白い跡が消えるまでは、君を好きでどうしようもなくて・・・その気持ちに、縛られ続けた・・・。」

 人生は選択の連続だというが、そうか、確かに僕らは自分らで選んだのだ。
 好きだという気持ちを伝えない、恋の成就を望まないという道を―――

 緒方の極限まで短くなったラークがもみ消され、ふいに唯一の灯りが消されたかのような物寂しい気持ちに襲われた。
 周りのネオンも、ビルの窓明かりも、デパートの巨大ツリーも何一つここへ昇って来た時とは変わっていないのに。
 たった今、二十年以上経って、初めてお互いへの想いを告白し合ったばかりなのに・・・・・



 その時、不意に携帯が鳴った。僕の方だ。目で緒方に断ってから、僕はその電話に出た。
 
「はい、白川です。・・・あ、進藤君?どうした?」
『こんばんはー、すみません、携帯まで追っかけちゃって。お宅にかけたら今夜は遅いって言われたんで。あの、明日の指導碁先のことなんすけど・・・。』

 進藤君に明日、僕の代わりに森下門下がお世話になっている方のところへ行って貰うことになっていて、細かい確認の電話だった。
 電話を切った後、すかさず緒方が訊いてきた。

「進藤か?」
「ああ。明日の指導碁のことで。彼はあれでも意外と年配に人気があるんだ。最近ではリーグ戦入りするようになったんで、ますますご指名が増えてね。」
「アイツは昔から不思議なヤツだった。俺が最もその秘密を告白されたい相手の筆頭だったな。」
「過去形で語るのは、いいことだ。もう、憑物が落ちたんじゃないの?」
「こんな、大告白大会の後じゃなぁっ!」

 告白、秘密、片思い、進藤君・・・いくつかキーワードが脳裏に浮かぶ。
 そう言えば。
 何年か前のことだ。進藤君も僕に、告白めいたことをしてきたことがあった。
 ずっと記憶の底に沈んでいたある光景が、蘇って来る・・・・・



 まだ彼が十代だった頃。確か・・・そうだ、森下門下の新年会で酔わされて、別室に寝かされていた彼の様子を見に言った時だ。
 かなり青い顔をしている若者を見て、未成年にこんなに飲ませちゃ問題だなと心配になり、水を運んだり摩ってあげたり、随分介抱したように思う。彼も初めて酔っ払った上に優しくされたことで、きっと気が緩んでいたのだろう。

「ねえ、白川先生。さっきの冴木さんの片思いの話だけどさ・・・。覚えてる?」
「えっと・・・ああ、冴木君が気に入ってる女の子がいるんだけど、彼氏がいて片思い中だってあの話?」
「うん。そう、それ。・・・で、思ったんだけどさ。片思いって、どのくらい続くもんかなぁ・・・って。冴木さんは今二ヶ月くらいって言ってたけどさ。」

 体を起こして水を飲んでいるが、呼吸が早い。酔いが完全には抜けてないようだった。

「もしさ、ずーっとずーっとソイツのことが好きで、一生報われないってわかっていてもさ・・・本当に好きでいることを止めらんなかったら、それも片思いかな?」
「進藤君?」
「それとも、そこまで一人にしか目がいかないって・・・おかしなことかな?変な執着みたいなもんで、恋・・・じゃなくなんのかな?」

 次々と疑問を投げかけてくる彼の様子に、それまで見たことのない一面を感じて、僕は面食らっていた。

「ちょ、ちょっと待って。君みたいな子が本気でおして落ちない女の子なんていないんじゃないの?」
「そういうんじゃないんだ!そういうんじゃ・・・もう最初から絶対に駄目なの。望みが無いっていうより、その方が相手にとっても、むしろいいかもって思うんだけど・・・先生・・・俺って、やっぱおかしいのかなぁ・・・。」

 彼の、僕に向かって切り込んでくるような真剣な眼差しに圧倒される。
 これは・・・酔っ払いのたわごととおざなりに答えてはいけないのではと、思わされた。
 ―――進藤君は片思いをしているんだろうか。
 こんなに若くて、前途洋洋としていて、手に入らないものなんて一つも無さそうに見えるというのに?
 僕は暫く考えて、それからゆっくりと、気持ちを込めて話し始めた。

「そうだね。とても難しくて・・・簡単には答えられないけど・・・もし君が一生諦めきれない相手だと思っているのなら・・・それでいいんだろう。僕が昔読んだ本で、それは男なのに幼馴染みの男性を好きになった主人公が苦悩する物語なんだけどね・・・その本の中に、主人公が自分の叶わぬ恋を人に打ち明けるシーンがある。その打ち明け話を聞かされた相手が、彼にこう言うんだ。・・・どんなに馬鹿みたいに見えることでも、貫き通せば本物になるんですよって。」

 それを聞いて―――目の前の進藤君の顔に、輝きが戻った。
 僕の言葉が彼の迷える心の中に、何らかの力を点火した瞬間だった。

「このセリフは本当に重いものじゃないか?恋愛でも、他の好きなことでも、他人から見たらどんなに馬鹿馬鹿しいようなことだって、人生を賭けて貫き通せばきっといつか本物になる・・・。僕はずっとこの言葉を大事にしていて・・・碁でスランプに陥った時なんかにね、必ず思い出す。」
「先生・・・。」
「君の片思いも死ぬまで貫き通せば、そうだな、単なる片思いではなく・・・さしずめその上に本物の、と言う言葉が付くんじゃないかな?」
「・・・本物の、片思い?」
「言葉の遊びと言ってしまえばそれまでだけど・・・僕はいいと思うよ。本物の片思いを死をもって完成させる・・・その為に生き抜く人生もね。」
「・・・先生、ありがとう!俺もその言葉、忘れないよ・・・。」

 微笑んだ様子はまだまだ幼くて、不思議な気持ちに陥った。
 それ程までに誰かを愛しいと思う激しい感情が、この現代っ子の代表みたいな少年の中に潜んでいるなんて、一体誰が想像出来るだろう?

 その晩は、進藤君に言ってからやっと、そうだ、自分にもこの片思いがいつまで続くのだろうと、焼けるような思いに焦がれていた十代があったことを思い出した程度だった。
 でも―――今夜は違う。
 片思いではなく両思いだったのに、それを知らずに通り過ぎたあの息苦しかった日々が、急に哀れに思えてくる。
 僕は、自分の選択を悔やんではいないと思っていた。
 でも・・・もし僕にこの片思いを貫く覚悟さえあったら、いつか運命はその流れを変えていったのだろうか?
 緒方と僕がお互いの気持ちを打ち明け合い、結ばれる日が来たのだろうか?

 ・・・いや、あの頃の僕では、きっと駄目だった。少なくとも、十五、十六歳の頃の、僕らでは・・・。
 理不尽な嫉妬によって、好きな人が大事にしているものを奪ってしまうような幼い感情のままでは、もし付き合い始めたとしても、どこかで自分の心をコントロールし切れなくなって破綻していただろう。
 僕は緒方ほど、相手の幸せや将来や、そんなものを考えられなかった。
 ―――彼ほど、強くはなかった。



「・・・白川?どうした?寒くて機能停止か?」
「ん?・・・ああ、ご免ご免。ちょっと思い出したことがあって・・・。いや、いいんだ。それより今から飲みに行く?勿論奢るよ。クリスマス・イブイブだから、そんなに混んでないだろ?」
「え?今日は二十三日か。そうか、もうそんなに・・・。」
「え?気が付いてなかったのか?緒方らしくないなあ、ははは・・・さすがに明日は誰かと一緒なんだろう?去年一緒にいた女性?」
「いや、あれとはクリスマスの直後に別れた。」
「ええっ!そうだったのか・・・これまででは一番君もマジのように感じてたんだけどな?」
「去年の十二月に言われたんだ。二十三日を自分の為に空けておいてくれと。」
「イブイブを?イブじゃなくて、何でまた?」
「だから俺もそう言ってやったんだ。そしたら・・・私はあなたにとってそのくらいの価値しかないんでしょうと言われた・・・。」

 僕は思わずぶっと吹き出した。

「笑うな。それでつい、何を言ってるんだ、イブを過ごしたいのはお前しかいないと口走っていた。」
「あはははーっ!そりゃあ、その女性は凄い!緒方、言わされちゃったんだ!」
「だから、すぐに別れたんだ。頭が良過ぎて、俺には勿体無い。」

 全く、緒方精次らしくて、涙が出るほど笑ってしまった。緒方本人は憮然としているが、きっと彼もこんな自分を笑い飛ばしたい日があるだろう。

「お前は、明日は家族と過ごすのか?」
「まあ、今のところは・・・でも、ルミももうニ,三年すればイブは彼氏と過ごすんだろうな。男親なんて、寂しいもんだよ。」

 そう言えば・・・あの新年会の後、冴木君は程なく片思いしていた子とは別の女性と付き合い出したし、進藤君も言わないけれど、どうもこの一年くらいの感じではステディがいるみたいだ。
 進藤君の相手が、あの時言っていた片思いの子でその思いが成就したのか、或いは、もっと好きな子が出来たのかはわからないし、訊く気もないけれど。
 でも、このところの彼の態度や碁を見る限りでは、いい恋をしていることは察せられた。
緒方と僕がなくした若さの只中にいる彼らを、素直に羨ましいと思う。

「じゃ、行くか?このビルの地下にいいバーが入ってるらしい。」
「あ!緒方、ちょっと待って。」

 コートの裾を翻して僕の横を掠めた緒方の体から、冬のキン・・・とした空気を割いて、煙草の匂いが流れてきた。

「我侭ついでに・・・一つだけ僕の願いをきいてくれないか?」
「・・・何だ?」
「左手を見せて・・・。」

 緒方は少し躊躇って・・・でも僕の願いをきいてくれた。

 二十五年前にしたくても、絶対に出来なかったこと―――あの頃の僕は、緒方精次に触れるどころか、彼の目を真っ直ぐ見ることすら叶わなかった。

 差し出された左手を両手で温めるように包むと、僕はその手の甲を見ながら、今は幻となった指輪の形を思い描こうとした。
 そして・・・まるで騎士が主君にする忠誠の誓いのように、薬指に唇を押し当てた。
 決して、官能的な意味合いじゃない。あくまでもうやうやしく、おしいただくようにだ。
 緒方の手が、反射的にピクッと引っ込められそうになったが、すぐに彼自身の意思で思いとどまってくれたようだ。



 この薬指に謝りたかった、ずっとずっと・・・・・
 僕のせいで、もしかしたら今も輝いていたかもしれないあの指輪を、永遠に失ってしまったことを・・・・・



 今、あの指輪はどこにあるのだろう?
 僕ら二人の、まさに禁忌の象徴ともいえる美しい指輪―――



 きっと。
 あの汚い川を下り、大海に流れ着き、二度と人目に触れることのない海の底で、今も静かに眠っているのに違いない・・・・・・  










                          ― 「禁忌」了 ―














     「TABOO」



 毎年この時期が近付くと、僕は落ち着かない気分になる。

 桜が美しい頃は、進藤との色々が思い出されて胸に不思議な感慨が寄せる。それが去って他の花々にも目がいく頃になると、今度は鯉のぼりが目に付く季節だ。
 空の海原に、さも気持ち良さそうに泳いでいる大きなサイズの鯉のぼりは、都会では滅多にお目にかかれない。僕の家にもあったのだが、いつの頃からか庭に飾られることは絶えていた。



 十八歳までは北斗杯が近付く季節だったので、僕らの春はいつも慌しかった。
 しかし、それももう数年前に出場資格を失い、今年僕は初めて団長を拝命した。
 若い連中と一緒に学ぶのは楽しいよと言うと、進藤にお前もまだ十分若いんだけど?…と、笑われたりした。

 そんな風に今年も北斗杯を控え、今夜はレセプションだ。
 進藤や社もOBとして顔を見せ、団長である僕を思いっきりからかったり励ましたりしてくれた。

「明日、どう?アイツらの調子は?」
「頑張ってるよ。去年みたいに韓国中国勢にやられっ放しじゃ悔しいからね。」
「俺らが卒業しちまってから、今ひとつだもんな。」
「しょってるな。…確かに結果を見る限りでは、そういうことも言えるが。」

 ふと気が付くと、二人で立ち話をしていた―――進藤ヒカルと。

 僕らはこんな風にポツン…と、二人きりになることがよくある。
 大勢に囲まれていた筈なのに、決してそう計らった訳ではないと思うのだが、いつの間にか二人だけで話していたりするのだ。
 二人でいると、自然と周りに倦厭されるような雰囲気を作り出すのかもしれない。

 そんな僕らが人物も棋風も対照的なライバルと言われ続けて、もう何年になるだろう…
 この頃ではリーグ入りも果たすようになった進藤と、気の抜けない対局をすることもしばしばだった。



「そう言えば、父が久しぶりに明日見に来るよ。」
「…え?塔矢先生が?」

 思ったとおりだ。進藤はこの話題にはきっと強く反応するだろうと。
 進藤が僕を見て、どことなく縋るような表情で言った。

「明日観戦しに来て、それから後は?暫く日本にいるの?」
「観戦後の予定までは知らないけど、もし君がそうしたいなら明後日を空けておいて貰うよ。」
「え?いいの、本当に…。」
「実はもう、そうして貰ってる。きっと君が言い出すだろうと思って。だって去年も一昨年も、今頃…北斗杯の頃だった。」
「ああ、覚えててくれたんだ。…うん、そう。先生と打ちたいんだ、また。」
「どう?今年こそ父に勝てそうか?」
「ははは…厳しいかな?…って、弱気は駄目だな。イケル…今年こそイケルって思ってるぜ!」

 中国リーグと、他の海外のオープン棋戦に力を注いで滅多に日本に帰って来ない父と打つには、こうしてプライベートな時間に約束を取り付けるしかない。

「また僕も同席していいのかな?」
「当たり前だ。お前には権利があるし…見て欲しいよ。俺がどんな風に先生と打つのか。」
「そうか。楽しみだな。」

 ―――明日の北斗杯よりも、もっと。
 君と父の対局、僕だけが観戦者の一年に一度の対局を楽しみにしているんだよと言ったら、君はどんな顔をするんだろう…

 その時、社を筆頭に若手の数人がやって来て、僕らはまた雑談の中に紛れていく。
 二次会に行こうと誘われたが、僕は明日があるからと辞し、進藤はみんなと繰り出すことにしたようだ。
 賑やかに去っていく後姿を見送っていたら、かなり酒の入っているらしい社の大きな声が聞こえて来た。

「よっしゃ〜、今夜こそは進藤の片思いのネーチャンの話を聞き出したるで〜、なあ、進藤!俺ら、友達やないか〜。」
「社、お前飲み過ぎだっつーのっ!酒くっせ〜。」
「やかましいっ!進藤、お前こそ今夜は覚悟しろや。吐かせたるで、その日秘密の片思い話っちゅーのを!」
「はいはい〜、全くうるせ〜ヤツだなぁ。」

 二人の会話を聞きながらも僕は背中を向け、また人の輪の中に戻って行った。



 進藤の片思い話は、仲間内では有名な話のようだった。
 二十歳を越えて童顔だった見た目も男らしく精悍な様子に変貌し、棋力の向上に伴い言動も立ち居振る舞いも堂々としてきた進藤ヒカルに、女性の影が一切見えないというので、ある時とうとう仲間たちに詰め寄られたらしい。
 そして得た情報は――進藤には絶対に叶わないと本人が認めている片思いの相手がいるということ。
 一生その人以外は考えられないと言い切ったそうだ。
 その様子があんまりキッパリしていたものだから、まるでドラマか小説のような台詞を誰もが半信半疑に受け止めつつも、噂せずにはおれなかったのだろう。

 僕の耳にも、聞くとはなしに耳に入って来た。
 不思議と驚きはなかった。そうか…そういうことだったのか、くらいに受け止めていた。

 進藤がどういう恋愛観を持っているとか、片思いが真実なのかとか、そういうことは僕にとってはどうでも良かった。
 僕は僕自身の進藤ヒカルに対する気持ちの有り様が何よりも大事で、それを守り抜くことに腐心して過ごしていたから。



 二日後。
 進藤が父と対局する為にうちへやって来た時も、僕はただ良き友人として棋士仲間として迎え入れた。

 5月の対局は三度目になる。
 進藤が5月の北斗杯前後に父と打ちたがるようになったのは、北斗杯を僕らが卒業した年からだった。

 どうして。どうしてこの時期になると、打ちたくなるんだ?僕の父と…塔矢行洋と。
 でもそれは訊けない。訊いて答えが返ってくるとは思えないから。
 その答えは僕が尋ねるのではなく、進藤が自ら語る形で明らかにされる種類のものだとわかっている。
 僕は心中で思うことは多々あれど、決してそれを口に出して問うことはなかった。

 いつの間にか。
 それを問うことは、僕にとってのタブーになっていたのだ―――




「は〜、今日も駄目だった…結構いいところまで追い詰めたと思ったんだけどなぁ…やっぱ最後の放り込み、参った、痺れた…さすが先生だ。」

 いつも以上に饒舌に語る進藤に、僕は彼の心中を想像する。

「年々、手応えを感じているんだろう?凄く悔しそうだ。最初の年は本当に胸を借りるという感じで、負けても清々しそうだったよ。…でも、今年は違うんだな。」

 勝てそうだったからこそ、最後にひっくり返されたのが本当に悔しかったんだなと、僕にはそういう風に解釈出来たのでありのままに言った。

 それを聞くと、進藤が僕をびっくりしたような顔で見てから、照れ臭そうに口元を歪め…やがて目を伏せた。
 あれ、と思った。
 何か変なことを言ったんだろうか…的外れなことを?それとも…不愉快になるようなことを?

 対局が終わって三人で簡単な検討をしたが、かなり遅くなったということで進藤は泊まることになっていた。最初から帰ると言い張った進藤を強固に引き止めたのは、父母よりも僕だった。
 だってそう…このまま進藤を帰すには、僕は物足りない感じがしていたのだ。
 彼と打ちたい、というのではない。父と進藤の対局に刺激を受けて僕も一局…という興奮ではなく、もっと…もっと別のところに芽生えた高揚感のようなものが、僕を捕えていた。

 今夜は、進藤と話をしてみたい―――さっきの彼。いつもの彼。そして、これから先の彼。
 僕の中の興味は、これまでも碁を含めた進藤ヒカル本人に向いていたが、今夜はそのことを一層強く感じていた。



 一緒に座敷に布団を敷きながら話していた僕らだったが、進藤が会話の途中に手を止めたので、僕も彼を覗き込んだ。…最後に彼に手渡すべき枕を、どうしようかと持ったままで。

「進藤?もう眠いか。」
「いや、そうじゃねーんだけど。はは、何だか塔矢には全部見透かされてんだな〜と思ったら…俺って結構丸わかりなのかな?」
「それは…僕だからだよ。昔ほど君は感情むき出しじゃないと思うけど、付き合いの長い僕からは見える時もあるってことだ。君のことはよ観察してるつもりだし?」

 冗談めかして言ったつもりだったが、進藤は思いがけず強く反応した。ぱっと弾かれたように僕の方を向き、目が輝いたように…見えた。

「それって、俺の碁だけ?…っつか、碁を打ってる時の俺?…俺自身のことは、全然興味ねーの?」

 一歩だけ。彼が僕へと歩を進めた。元々が一つの布団を敷く為に近い距離にいたのだから、更にそれが縮まる。
 急に辺りの空気の質が変わってしまったかのようで、息苦しさを感じた。

「興味って、それは…全然ないとは言い切れないけど、そりゃあ君が今どんなことに夢中かとか、知りたくない訳でもないけど…いや、でもプライベートをあれこれ詮索するのは失礼だ。僕は、君と打てればいいんだから。」

 迷いつつ言葉を選びつつだったが、最後はキッパリと言い切った。
 心を隠して言い切ることが出来て、自分で自分に安心した。

「ふうん、やっぱ、お前は厳しいな。いや、人にってだけでなく、自分にってことだよ。…あ、いい意味でだよ、これもちゃんと言っておかないと。お前は人が言いたくねえことを詮索したり、ズカズカ無神経に踏み込んだりしねえ…本当の意味で大人なんだろうな。」
「進藤?」
「でも俺は悪いけどスゲー子供だからさ、碁が絡む時以外の塔矢を知りたいって思うこと、あるよ。お前のこと丸裸にして何でも聞き出してーって…好きな女のこととか…そういうこと…。」

 驚いた?俺のこと、軽蔑する?…と。
 話し方には悪ぶった感じを漂わせているくせに、その不安そうな目付きは何だ?
 僕を煽っているのか?僕の中の何かに火を点けて、何かをさせたい、言わせたいのか―――

 急に怒りにも似た感情に襲われる。こんな風に僕が衝動的になるのは、もう今では進藤ヒカルに対してだけだ。

「僕に知りたいことがないとでも?訊いちゃいけないと思うから訊かないだけだ。知りたいことならある。」

 ―――でもそれを訊くことは、それこそ僕らの間のタブーだろう?違うか…進藤ヒカル…
 もう僕は臆さなかった。真正面から進藤の視線を受け、見詰めた。

「例えば、その扇子の意味…。」

 僕は、進藤のデイパックのポケットから少しだけ覗いているそれを目線で示す。
 進藤の体がぴくり…と、小さく揺れた。

「例えば、君の片思いの相手。死ぬまで思い続けて、本物の片思いになるのを待っている人生だなんて―――そこまで君に思われる相手は誰なのか…。」

 今度こそ本当に、彼の影が大きく揺らいだ。近くにいた僕まで、眩暈を覚えそうになる。

 数秒の間があって。

 彼が掠れた声で塔矢…と僕の名前を呼んだと思ったら、こちらへと踏み出して来た。

 瞬間的に。
 頭で音のない警報が鳴り響き、僕は手に持っていた枕を力任せに彼の胸に押し付けた。投げるほどの距離もない。

 さながらラグビーボールを不意に渡されたかのように、それを胸に抱いたまま、進藤は一旦下げた頭をのろのろと上げて僕を見た。



 …彼は、初めて見るような顔をしていた。
 僕の知っている進藤ヒカルではない。
 それは、周到に隠されていた彼のもう一つの顔がベールを脱いだかのようにも感じられ、僕に深い衝撃を与えた。

 ―――君は誰だ?どうしてそんな目で…僕を見る?



「思ってもみなかった、お前がそんなこと、考えてたなんて…っつかさ、知ってたんだ、その話。」
「意外だったか?僕が君のプライベートに興味があるなんて。はは…きっと意外だよな。だってそういうことを訊ねたり話題にするのは、僕らの間ではタブーのようなものだったから…。」
「塔矢…。」

 進藤の視線が熱い。
 まだ彼が僕のことを見詰めているのを感じていた。

 衝動に負けた数秒前の自分を…進藤相手だとこの年齢になっても抑制の効かない未熟な自分を…僕はもう既に悔やんでいた。

「すまない。君は対局で疲れているだろうに…別に、だからといって君に答えて欲しいとか、全部を知りたいとかそう思っているわけでもないんだ。つい言葉にしてしまって…本当にすまない。じゃあ、おやすみ。」

 逃げたかった。自分で作り出しておきながら、この気詰まりな空気から一刻も早く逃げ出したかった。

 進藤も何も言わない。
 背中を向けて部屋を出て行く僕を彼が引き止めなかったことに、正直僕は安堵した。



 それなのに、僕は眠れない夜を迎えることになった。
 進藤をヒカルを好きだと意識して、そのことからどれだけ目を背けたかっただろう。
 僕の十代は、脇目も振らず碁に専念し強くなることで、進藤への気持ちを敵愾心だけに変換しようと躍起になっていた時期でもあった。

 それでも進藤に女性の影がないことが、僕にとっての救いだったのだと気付かされたのは、進藤の片思い話を聞いた時だ。
 納得すると同時に、それでは僕も進藤を生涯好きでいてもいいのかもしれない。報われないから…迷惑だろうから…と、自分の気持ちを捨て去らなくてもいいのかもしれない。

 不思議な希望が湧いた。
 進藤が、同性でありライバルである僕をそういう対象に見ることは絶対に有り得ないとわかっていたから、一見絶望的に思える状況ですら、僕には彼が誰かと結ばれるよりはマシだったのだ。

 だから。
 言うつもりはなかったのに。

 さっき見たばかりの進藤の顔が、脳裏に蘇る。
 どう受け取っていいのかわからない顔だった。
 僕に興味を持たれるのは嫌じゃなかった、ということか。僕のプライベート…女性関係にも興味があるなんて、本心なんだろうか。

 いくら考えても仕方のないことだと、よくわかっていた。
 それでも思考を止めることが出来なくて困っているところに、机に置いていた携帯電話が鳴った。
 進藤からだった。

『もし起きているなら、付き合ってくれないか?目がさえて眠れない』

 すぐに返信した。同じ屋根の下にいるのに、変な感じだ。

『僕も眠れなかった。打つか?』

 それにもすぐに応えが…意外な応えが返って来た。

『この辺で、まだ鯉のぼり見られるところない?夜だと無理かな』

 僕は本格的に起き上がると、急いで着替え始めた。





 玄関の戸をひっそりと開けて、僕らは外に出た。
 近所に区が運営している広場があって、昼間は犬の散歩の人や子供たちで溢れかえっている。そこに大きな鯉のぼりがはためいているのだった。

「おお〜、これかーっ!街頭があるから夜でもばっちり見えるじゃん!」
「さすがに深夜だと風はないけどね。」
「うん…でも、このレトロなスタイル、いいな〜、昔ながらってやつ?いや、俺も昔なんてよく知んねーけど。」

 ベンチに掛けるのかと思ったら、進藤は芝生の上に直に腰を下ろした。まだ夜露が降りるような時間ではないから、僕も頓着しないで横に座った。

「俺らって付き合い長いけど、あんまり自分らのこと、話したりしてこなかったよな。考えてみれば不思議なんだけどさ。」
「うん、そうかもしれない。でもさっきも言ったように、碁が優先だと思っていたし、君もそうだろう?碁のこと以外で僕に興味があるなんて思えない。」
「ねえ、どうしてそんな風に決め付けんの?…いや、俺がずっとそういう雰囲気を作って来たんだろな…確かに、お前に言えないことや知られたくねーこと、多過ぎかもしんない…。」

 進藤は膝小僧を抱えるようにして座っていたが、その腕を解いて大きく上半身を伸ばすと、今度は後ろに手を付いて空を振り仰いだ。
 そして。
 風のない、星の少ない都会の夜空に静かに佇んでいる、時期を外れた鯉のぼりを見ている…
 僕はと言えば、そんな進藤ヒカルをぼんやりと見ていた。

「昔は鯉のぼりはちょっと辛いアイテムだったな、俺には。正確にはさ、鯉のぼり自体がっつーよりも、この季節がってことなんだけど…。」

 少しずつ、僕の心臓が駆け出すのを感じる。
 とても大事な時間を迎えているんだと、その重みが心に圧し掛かり始めた。

 進藤はそこで一旦言葉を切ってから、隣の僕を見た。温かい目だと思えた。

 僕も、彼をどこまでも信頼し、彼の言葉を受け止める用意があることを知らせたくて、それも言葉ではなく、目で、態度で、空気で知らせたくて、静かに、そして想いを込めて彼を見返した。

「どうして今頃にこだわってるかっていうとな…俺にとって大切なヤツがこの世からいなくなったのが5月5日だったから…。」

 ゆっくりと。彼の言葉を反芻し、それから飲み込んでいく。
 僕の中に散らばる疑問や憶測がぐるぐると一つの容れ物の中で混ざり合って、やがてある形をとった。
 進藤が真実を告げようとしているのなら、僕も感じたままに返そう。

「そうか…その人が、君の片思いの相手なんだろう?」
「え…ええっ?ちょっと待って、塔矢!」

 慌てふためく進藤を見るのは、久しぶりのような気がする。最近ではめっきり大人の顔を見せるようになっていたから。プライベートでも、対局でも。

 何だか可愛いなあ…君って、案外可愛いんだなあ…と。

 そんなこと感じる場面じゃないだろうと自分で突っ込みながら、でもそんな風に僕は、段々と穏やかな気持ちになっていた。
 だから…いつの間にか僕は微笑んでいたらしい。

「ああぁ、マジで驚いたぁ…お前、そんなこと考えていたなんて!ホント、頼むよ〜、そりゃあ言わない俺もワリイけどさ、そこまで想像するお前も…ちょっと意外だ…おい!笑うなよっ!これから、マジな告白話すんだからっ!」

 そんなこと言いながら、君だって顔がほころんでいるじゃないか。

「そっかぁ、お前、そんな風に誤解してたんだ。俺、想像もしてなかった…。」
「違うのか?君は、ずっと心に秘めたことがあるみたいだったから…きっと繋がっているんだと思っていた。」
「んん〜、俺の好きなヤツと、いなくなった友達のことは、微妙に関係もあるんだけど……まあ、それはそれ、これはこれってことで。どちらも…多分どちらもちゃんと話す。話せる時が来ると思ってる。…や、信じてるんだ。俺にとって、お前に全部を話す日は凄く大事な日で、それには何か自分の中でハードルを置かなきゃって思ったんだ。それが北斗杯を卒業してから、俺なりに考えたことなんだけど…。」
「ああ、なるほど…そのハードルが父だったのか?」
「うん、それもある。でも、塔矢先生じゃないと意味がなかったのは、友達がきっと塔矢先生と打ちたがってると思って。命日…って言っちゃうのは嫌なんだけど、喜ぶことをしてやりたかった、アイツが消えた日に…出来るなら毎年…。」

 供養―――のような意味合いが、彼の行動には含まれているのだろう。

 やっぱり、彼は知らないうちに大人になっていたのだなと、改めて彼の成長を感じた。
 亡くなった大事な人に報いる何かをしたいと願う彼を、そしてそれをきちんと成し遂げようとする彼を、深い人間だと思う―――

「でもさ、なかなか勝てね〜なぁ…やっぱ強いわ、先生。引退したって言ってもさ、あれからもう何年も中国韓国では現役だし…。」
「じゃあ君が父に勝てる時が来たら、それは僕が君から大事なことを告げられる日って―――そういうことか?」

 あ…と、また驚いたような顔になる。元々大きな目が、街頭の薄灯りの下で見開かれた。

「え、えっと…そうだな、ハッキリそう決めている訳でもないんだけど。うん、消えた友達のことはきっと話せる。でも、俺の…そのぉ…好きなヤツの話はさ…本当に片思いのまんまでいいっつーか…。」
「あっ!そうか…。」

 今度は僕が驚く番だった。
 しかも、思いがけず大きな声になってしまって、僕は自分で自分にびっくりさせられる。
 僕をそんな風に驚かせたのは、今の今まで進藤の果てない片思いは相手がこの世にいないからではないかと思っていたのに、そうではなかったという事実を急に意識したからだ。

 間抜けだ…進藤の片思いの人は…確かにいるんだ…

 でも、どこに?誰なんだ、それは…

「言いたくないのか?一生そのまま、君がみんなに語ったように墓場まで持って行って、そして本物の片思いとして…葬ってしまうのか…。」

 知りたいと、強烈に思った。
 知りたい。進藤の相手を、知らなくてはならない。
 僕にはその権利があるような気がしてならない―――

「塔矢…。」

 彼はかろううじてといった風に僕の名前を呼んだが、目を伏せた。耐えられなくてそうしたのだとわかる。

 彼が再び手を膝に戻して丸まった。足が貧乏ゆすりを始めたのも見えた。膝の上に載せられた手も、力いっぱい握り締められている。

「進藤?何だか…緊張してるのか?君…。」
「あ〜、あはは…そうだな。お前とこんな話するの初めてだからかな。どうもさ、間に碁盤とかねーと落ち着かないのかも…。」
「進藤。僕にも秘密がある。僕も片思いをしてるんだ。」
「ええ?」
「もうずっと…何年も前から。君と一緒だ。叶わないだろうけど、でも諦められないから死ぬまで持っていくと思っているよ。」
「塔矢?ちょ、ちょっと待って…そんなこと俺に聞かせていいのか?お前…。」
「君が父に勝つ日が来たら…僕もそれを告白するよ。今言えるのは、それだけだ。」

 言ってからすぐに立ち上がった。勢いが良過ぎたみたいで、隣の進藤が僅かに仰け反った。

 霧が晴れたように胸の中は清々しく、厳かな気持ちにさえなる。この感覚は、ある種の幸福感だと思った―――



 歩き出した僕に、進藤がすぐに追い付いた。彼も何も言わない。
 まだ今夜の一連の出来事が消化し切れていないのかもしれないし、或いは全てが彼の中では綺麗におさまり、訊ねるべきこともなく、ただ前に進むしかすることはなかったのかもしれない。



 それからも。
 僕らは互いに踏み込むことなくただひたすら碁に全てをかけて、二十代の前半を駆け抜けた。












 進藤と僕が互いに抱えた「片思い」に終止符を打つのには、鯉のぼりを見た夜から更に数年の時を待たねばならなかった。
 しかし、その時には僕らはもう己の気持ちに―――お互い以外は考えられない、そのくらいだったら一生片思いを貫く方を選ぶ―――自信もあったし、相手の気持ちもちゃんとわかっていた。

 進藤がその人の命日に父と碁を打ちたいと願う、それほどまでに大事な相手が誰であったのか―――僕にも大体のところは想像が固まり、同時に僕にわかられているということを、進藤も理解しているようだった。



「どした…塔矢。打ち足りない?それとも、こっちが足りない?」

 今は、静かに抱き合って眠っていた。二人分の体温のせいで熱いくらいの布団の中で。

 進藤の手が、慣れた様子で僕の肌を撫でていく。
 やがて下半身に辿り着くと、また熱を上げるつもりなのか、焦らすつもりなのか、ゆるゆると緩慢に触れてくる。
 身をくねらせる僕の鎖骨に、進藤の濡れた息がかかる。骨と肉の合間の窪みをなぞるように舌を這わされ、ああぁっ…と、とても恥ずかしい声が出た。



 ―――僕らは二十代も折り返し地点を過ぎ、それぞれに大きなタイトルを持っている。もうとっくに若手ではない。
 年齢に見合うほど大人になれたのかと問われればまだ自信は持てないが、横にいる愛しい人に恥ずかしくない生き方をしていたいとは思っている。
 僕らの願いは共に高みを目指し、真っ直ぐに碁を打っていたいということ。ただ、それだけだったのだ―――



「…な、俺も優しくされたくなって来た、お前に。もう一回、俺にやさし〜くしてよ?…アキラ。」
「あ、その呼び方は…。」

 こういう仲になってからも、僕らの間にタブーはある。
 口に出して約束事を確かめなくても、それぞれが胸の内で触れていけないこと、してはならないことをちゃんと持っている。
 そのことに触れたが最後、二人の間にある何かが壊れて変容してしまうだろうとの惧れだけでなく、互いを大事にしたい気持ちの表れでもあった。

 名前で呼ぶことも、抑えていた。
 進藤にしてみれば、抑えるどころか我慢の域だったらしい。
 付き合っている相手を苗字で呼ぶなんて、そんな空々しいこと信じられない、ベッドの上でもそうしなくてはならないなんて…というのが、彼の言い分だ。

 でも、仕方ないというのもわかっている。
 いくら二人きりだけの時の約束と言っても、それがクセになって何かの拍子に口をついて出てしまったら…誤魔化しようがない。

「もっとさ、若いうちに名前で呼び始めたら、きっと不自然じゃなかったよなぁ…十代の頃にアキラ〜とか呼んじゃってたら、芦原さんみたいで全然おかしくなかったのにさ。」
「そして僕だけが進藤って君のことを呼ぶのか?それもどうかと…。」
「違うってば! お前も俺のこと、ヒカルッて呼ぶの!ヒカル、打つぞとか〜、ヒカル、ラーメン食べに行くぞとか〜。」
「馬鹿らしい。安全策をとることの方が断然大事だな。」

 素っ気無く言ってやったら、進藤がくそ…と小さく悪態をつき、僕を抱き込んで来た。
 こうなってみてわかったが、言葉で勝てない時は体に訴える…というのが可能なのが、恋人同士らしかった。

 男女の甘いだけの仲なら一方的になりがちな行為も、男同士だとかなり意思の一致も協力もなくてはならない。
 それだけに、僕らは張り合うように相手を気持ち良くさせる。より相手を悦ばせた方が勝ちのような雰囲気さえあった。

 想いが成就しても、僕等が同性であること、食うか食われるかの厳しい戦いをくぐって生きていかねばならないことに、何の変わりもなかった。

 名前で呼ぶことを禁じるなんて、まだ些細なことだ。
 互いの両親が世間並みに結婚を期待していることや、タイトルをかけて打つ時の気持ちの高め方や葛藤のおさめ方、その他にも大きなことから小さなことまでたくさんある。
 それでも僕らは、一緒に生きる道を選んだ。



 時々、僕は想像することがある。

 進藤も僕も、それぞれに「片思い」をしているのだと信じ込んだまま一生を終える。

 或いは―――

 互いに承知していても、相手に告白せずに友人としての人生を送る。



 そのどちらも有り得たと思う。
 それでも良かったのかなと、色々と不具合を感じてしんどい時には溜息も出たりするが。

 互いを大事に思うことに変わりがなければ、一緒に生きていくのも悪くはない選択だったと、今なら思える。
 特に、こんな風に何も遮るものなく抱き合える夜は、自然に幸せを噛み締めることになってその想いは強くなるのだった。

「やっぱさ、時々はアキラって呼ばせて…。」
「仕方ないな。もし外で漏らしたら酷いぞ。いいな…。」
「うん、わかってる。だからお前もヒカルって呼んで。…俺のこと、アイツはヒカルって呼んでた。今は、お前にも呼ばれたい。もう、そう呼ばれても胸が痛まないから…そのくらい、アイツとの時間は確かなものになってここにあるから、さ…。」

 手を取られて、彼の胸に乗せられた。
 ここに…とは、彼の心の中に。彼の記憶と、魂の中に。

 そこに刻まれたかの人の姿。思い出。碁の遺産。それは全て、今では僕にとっても宝物だ―――



 僕も完全に彼に向き直り、彼の裸の胸にある手を滑らせて、はっきりと彼を感じさせる動きをした。
 僕からの愛撫にふうぅ…と、甘い吐息をこぼす彼は凄く色っぽい。

 明るい前髪の奥にある瞳は既に潤んで、欲望の深さを映していた。
 感じる…彼の全てが僕を感じさせる為だけに、今ここにある。

 僕の、そして彼の荒れる息使いを閉じ込めたくて、口付ける格好で近付いた。
 それから目を閉じると呼んだ。小さく「ヒカル」…と。

 それを聞いて嬉しそうに切なそうに微笑んだ進藤は、もう一度聞きたいとばかりにすぐに唇を離したが、僕は意地悪だから望み通りにはしてあげなかった。
 待って、もう一度呼んで、キスの前に…と、声なき声でねだる甘えん坊の彼の唇を無理やり塞いで、優しく貪った。

 大丈夫。後でいくらでも呼んであげる。君がうんざりするくらいに。
 そう…僕らがうんと年をとって、君が薄い頭を、出っ張ったお腹を気にする頃には、ね。



 人生には無数の分岐点があるとして。

 僕らはこれからも意識することなく、一緒に生きる道を選んでいくのだろう。例えそれが、どんなに険しい道だとしても、だ。

 その程度の強さと、そしてちょっぴりの孤独を抱えて、僕らは一緒にい続けるのだと、進藤の腕の中で満たされながら確信していた―――










                           ― 「TABOO」了 ―





旧サイトに載せた「禁忌」(16のお題)に、「TABOO」を書き下ろして無料配布本にして配りました。
言わずに一生を終えるヒカアキは、どんなにトライしても書けなかった苦い記憶が・・・^^;
ちなみに「禁忌」の前に「ウチアケラレタイ」というSSがあり、内容が続いています。緒方さんの知りたがり病(笑)


NOVEL