― もうひとつの結晶 ―
「…何を見ている?」
「あ、ああ…勝手にワリイ。机の上にあったから。」
「それか…。」
背後から進藤に近付いた。
畳の上に座り込んでいる彼は、片膝を立てて背中を丸めていた。
部屋は、小さなスタンドの灯りだけに照らされている。
「雪が降ったから思い出してさ。子どもの頃、顕微鏡がすごーく欲しかったんだ。それはこの本をもらったからなんだけど。」
「ふうん…綺麗だな…。」
「だろう。」
進藤が見入っていた本。それは写真集。特殊な顕微鏡でとらえた雪の結晶だけを無数に集めた、有名な写真集だった。
「この写真家の生涯はね、伝記絵本にもなっているんだ。今度、それも探しておくよ。」
「ふうん…読んでみてえな。…それにしてもこんなにたくさんの雪…それも結晶だけ。よく撮ったなぁ!」
「凄いよね。こんなにたくさんあっても、ひとつとして同じ形はないんだから。」
「そうなんだ…不思議…。」
淡い光の中で、雪の結晶の数々が浮かび上がって見える。
そしてそれに見入る進藤の穏やかな横顔が、僕の視界に入っていた。
しんしんと更ける真冬の夜。
全ての音が吸い込まれていくようなとは、こういう夜のことを言うのだろう…
そのうち進藤の指が伸びて、ページの中の雪の結晶にそっと触れた。
「あ…。」
「変かな?写真だってわかってんのに、何か触りたくなっちゃって。」
「ううん…僕もね、子どもの頃同じことをした。こういうのを見ていると触りたくなるよね。まるで冷たさまで感じられるような気がしないか…。」
「ん…。」
俯いている進藤の背中に、僕は静かに抱きついた。二人の体が折り重なる。
彼の肩越しに見る写真は、更に生き生きと僕の目に映った。
「どしたんだよー、甘えてるみてえ。」
「ん…どうしたんだろうね。寒いからくっつきたくなったのかな。」
「っそ…。」
ぱらり。ぱら、り。
進藤がページをめくる。
僕も黙ってそれを見ている。
進藤は最後まで見終わって本を閉じると、彼の胸元辺りに回した僕の手に触れた。労わるように擦られた。
「さっきは無茶してご免…痛いところとか、ない?」
「大丈夫。僕だって随分力を入れていたし。」
…さっきまで。
僕らは激しく交わっていた。
どちらも○○リーグに残れるかどうかの瀬戸際。極度の緊張を強いられる直接対局の後だ。
普段の僕らは、割合淡々としている方だと思う。
単に忙しいというのもあるが、何よりも碁打ちとしての欲求が優先される。抱き合うことも幸せだが、打つこと、学ぶこと、いい碁のためのあらゆる時間も大切だから。
体を重ねても最後まで行き着かず、ただ、お互いを気持ち良くさせて終わることも、隣で眠るだけのこともあった。
そういう方面に積極的ではない僕を、進藤が思い遣ってくれているというのもあるだろう。
だけどこんな日は違う。二人とも、別人のようになってしまうのだ。
僕らは対局の数日前から気持ちが尖っていき、プライベートでは会わなくなる。…いや、会えなくなる。
対局中は言わずもがな。思いつかなかった手を打たれれば悔しさに睨みつけもするし、思うような碁が打てなければ己の不甲斐なさに唇を噛む。
ギリギリのところで正気を保っているような碁は、進藤相手にしか打てない。
だからだろうか。
終わった途端、せき止めていたものが一気に胸になだれ込んで来る。いっぱいになる。溢れそうになる。
出来る限り早く二人だけになってはお互いを貪り、長い時間お互いを離すことが出来なくなるのだ。
今夜も進藤はこの家に入って来るなり、僕の手を引いて急ぎ足で部屋に入った。
布団を敷くのもそこそこに縺れ合い、一言も交わさぬままに愛し合っては幾度も果てた。
進藤は僕の体を執拗に開き、乱暴に突き上げ、そして前もいじった。
感じる内部を彼の熱くたぎるもので刺激され、膨れ上がった僕のものを絞り上げられるようにされ、僕は痛みと紙一重の快楽に翻弄された。
止められないのだ。
進藤もそうだが、僕も。
全速力で走る体は、一体どこを目指しているのかわからない。どこまで行き着けば満足するのかも。
日ごろの淡白さが嘘のように、僕らは疲れ果てて腕も上げられなくなるまで互いを追い上げた。
今、進藤が僕の手に頬ずりをする。触れ合っている背中と胸だけでなく、頬と手からも温もりが移っていくのを感じていた。
「俺、いっつもお前に優しくし切れないな…明日になったら、もう少し落ち着けると思うけど…。」
「それを言うなら僕だって。もう、君の髪を抜けそうなくらい引っ張ったり、背中に爪を立てたりしないとは思うけど…。」
「あっ…思い出したら背中がヒリヒリし出した、かも…。」
「本当か?」
僕らは、誰かに聞かれる心配もないというのに声を殺して笑った。優しい夜の静寂を壊したくなかったのかもしれない。
進藤は本を置くと、後ろから抱きついている僕へと向き直って抱き締め直した。
「お前だけ。世界中でお前だけなんだ…俺がこんな風に打ってる時も、セックスしてる時も、訳がわかんなくなるのは。自分で自分がコントロール出来ない。おかしい。」
俺の中から何かが飛んじまうんだ…お前が相手だと…
「うん…わかってる。わかってるよ。僕だってそうだ。僕の方がうんと幼い頃から、君に関しては我慢がきかなかったんだから。君だけなんだから。」
「塔矢…塔矢…塔矢…とうや…。」
…愛しい。
切ない声で僕の名前を呼ぶだけの彼が、愛しい。
愛しくて愛しくて、たまらない。
「世界でただ、ひとり――――そう、雪の結晶と同じだ。」
「そうか…そうだ!一緒だなぁ…。」
この世界に、雪のひとひらのように果てしなく生まれる命。
けれど、雪の結晶にひとつとして同じ形がないように、僕らもまた、ひとりひとりみんな違う。
世界で唯一の命にめぐり合え、愛し合える…言葉もなく抱き締め合うと、僕らはその奇跡に深く深く、感謝した。
「…明日の朝は積もってるな、きっと。」
「うちの前の雪かき、手伝ってくれよ?誰かさんのせいで僕はもう、かなり疲れちゃったから。」
「わかってるってー。腰、やられたら困るな。気をつけてしようっと!へへ…。」
僕らは手と手を繋いで布団に入った。布団はまだ温もりを残したまま、僕らを迎えた。
この写真集をともに見た僕らは、きっと、昨日までとは違う感慨で目の前の雪景色を眺めるに違いない。
幸せな予感に、合わせた二つの胸がひとつになって…
震えた。