― 変わらぬもの ―
( 5 )
微妙に機嫌を損ねたらしい。それはわかった。
んー……やっぱり玄関の呼び鈴が鳴った時にストップかけときゃ良かったかな。引越し当日だっていうのに、やっぱり体の暴走は止められなかったなぁ……
別に欲望だけが俺を動かしたんじゃない。
嬉しかった。ただ、これから一緒に住める、好きなだけ傍にいられると思うと、どんなことも吹っ飛んじゃうくらい嬉しかったんだ。
全てが終わった後、塔矢は大きな溜め息をついて、汗で黒髪の張り付いた顔を俺に向けた。涙目が、息を飲むくらい綺麗だった。
塔矢は一言――また、シャワー浴びなきゃ……と呟いた。
その頼りない声が、俺の中に罪悪感に似た気持ちを起させる。それなのに。俺がしたことはやっぱり、度が過ぎた快感に震え
が残っている塔矢の矢の体を、もう一度後ろから強く抱き締めることだった。
今度は脱力した故の溜め息というよりも、呆れた……といったニュアンスの混じった声が漏れた。
それすらも色っぽいと感じる俺は――こりゃ相当重症だわ。
「離せ……行かなきゃ……。」
「あ、あ、ごめ…。」
塔矢の腰を掴んで抜く瞬間も、塔矢はブルブルと下肢を震わせ辛そうな声を漏らした。声が、掠れるというよりも割れてるような音だった。
そのまま肩を支えて、風呂場へ連れて行く。
床に坐ったら、と促しても、そんなみっともないことをするものかと歯を食い縛り立ったまま、塔矢はシャワーに濡れていた。
少な目の湯をゆっくりと掛け、汗ばんだ全身を、それから俺が汚した場所を綺麗に流した。
指を入れる瞬間はビク…と体を堅くしたが、ここで遠慮したら塔矢の負担を大きくするだけだと、敢えて俺は続けた。優しく声を掛けながら、中を綺麗にする。
大丈夫……もう、イタズラはしないから……お前の体が心配なだけ……大事なんだ…………
低い声で言うと、初めての風呂場では不思議な感じに響いた。
まさか本当にこうして一緒に入るとは思っていなかった。少なくとも、今夜はそういうことにはならないだろうと思っていたのに。
期せずして、塔矢と一緒に浴室にいる。
ああ……初日にこんないっぺんに経験したらさ、どうしよう?キッチンでも風呂場でも、やったこと想像しては勃ったりしたら……うわああぁ…………
俺って馬鹿。大馬鹿。そんなんじゃ生活なんて出来ない。塔矢と一緒に暮らすことが大変になっちまうじゃんか!
俺は塔矢に悟られないように、心中で溜め息をついた。
ベッド周りだけはすぐに寝られるようにしてあった。そうした方が夜、楽だからって、引越しを一度経験している俺から提案したんだ。
塔矢の部屋は実家と違って洋室で、当然ベッドを置いた。雰囲気が違い過ぎて眠れるのかなって心配になるけど、そこに寝るしかないんだからしょうがない。
「じゃあ、俺は食いモンでも買って来るから。少し横になれば?ここんとこ、あんまり寝てないだろうが。」
「…蕎麦にしてくれ。引越し蕎麦。ご近所にも配るから。」
「え、えっ?マジ?引越しの日は蕎麦食うのって、キマリ?近所にも配んの!」
「冗談だよ…そんなこと。言ってみただけだ。」
「お前、人が悪いなぁ…。」
冗談が言えるくらいには落ち着いて来たんだ。良かった……
「…あのな、やっぱり…お前、怒ってる?もう、後悔したり…してねえ?」
ちょっとだけ間があってから、塔矢が答えた。
「そういうんじゃない…君に怒ってるんじゃないよ。僕は…自分が情けないだけだ。これじゃ玄関の鍵――何かあった時の為に芦原さんか市河さんか、誰かに渡しておこうと思ったけど…気になって渡せそうもない…。」
「…うん。」
「それに…初日からキッチンであんな…あれじゃ、思い出しちゃいそうで…………困る…。」
「あ…ああ、うん…そっか。」
「何がうんなんだ?わかった風な…。」
「え、だって俺も思ったモン。ヤバいって。お前が流しに向かって背中なんか見せてたら、即、勃ちそ…。」
「馬鹿っ!君、全然懲りてないないなっ!」
「いってっ!」
枕が飛んで来た。塔矢は低反発で厚みのないものを愛用してるらしくて、当たると意外と痛かった。
これってまさか、新婚……もとい同居初日から喧嘩?って……そういうこと?――ちょっとドキドキする。
枕を抱いたまま、もう一度塔矢の元へと歩み寄った。
「進藤…枕、返せ。少し眠るよ…起きたら食べるし、もう少し片付けたいから。」
声音は決して怒っている様子じゃなかった。すっかり日も暮れて薄暗い部屋の中、覗き込んだ顔もぼんやりとした感じで、あ、これは塔矢が俺にしか見せない種類の顔だと思った。
掛け布団のないベッドに、寝そべるようにして腕を伸ばす塔矢に、俺は枕を差し出す。触れなくても出来ただろうに、塔矢はちゃんと俺の手にも触ってそれを受け取った。
触れ合った指先が、少し熱い……まさか、疲れから発熱なんてしてないだろうな……
「そんな心配そうな顔するな。一度に色々あって…ちょっと飽和状態なんだ。これから寝て、ゆっくりと消化していくよ…。」
弱々しい、けれど優しい微笑みが俺を安心させてくれた。
「進藤、起きろ。いつまでノンビリ寝てる!」
「…んあ…ああ?塔矢…ひゃっ、眩し…。」
次の日は、早朝から起き出していたらしい塔矢に叩き起された。
結局、塔矢は俺が買い物から帰って来ても寝たまんまだった。起すのはしのびなかったから夕飯はキッチンに置いて、俺は自室の片付けだけを静かに続けた。
初日から喧嘩……は何とか避けられたけど、それぞれの部屋で別々に寝ることになった。いや、そういう約束だったから別にいいんだけどさ。
本当ならあんな「無し崩し的なセックス」じゃなくて、今日はお疲れさん!……な〜んて二人で乾杯でもした後に、奮発した俺のウォーターベッドで愛し合ってから一緒に就寝――というのが、おぼろげに描いていた初日の予定だったのに。
なんだかなぁ……最初からこうだと、何ひとつ思い通りにならないようで、ちょっとばかり先が思い遣られる。
でも、俺のちっぽけな憂鬱を振り払うように塔矢は明るかった。
不自然な様子はなかった。心から楽しそうに働いていたと思う。
キッチンなんて場所だったけど、そんなにしつこく長い時間抱き合ってた訳じゃないし、そっち方面よりも単に引越し前後の疲れの方が気になった。
言動は明るいけど、ちょっと顔色が白いように感じた。
ひと段落ついたところで散歩に行こうと提案して来たのは、塔矢の方だった。俺としても近所を探索したかったし、荷物も粗方片付いたし、丁度いい。
桜はとっくに終わり、つつじがあちこちで咲く季節だった。マンションのエントランス付近の緑地には、ハナミズキも木蓮も、ちょっと早めのバラもジャスミンも咲いている。古いお屋敷町に建つマンションは美観を損ねないように低層で、外装もレンガ色で沈んだ色合いだ。
流行の高層マンションよりもこういう落ち着いた雰囲気の建物の方が、初めて家を出る塔矢には向いているだろう。それもここを選んだ理由の一つだ。
エントランスを出てから、最寄り駅までは十分ちょっとは歩くけど、俺たちにはいい運動になる。大きな公園もあるし、ただブラブラと歩くだけでも感じのいい町並みだった。
「…な、駅前の焼き鳥屋はイケてたな、安くてうまくて。持ち帰りもOKっていうのが使えそう。それからやっぱりあの和菓子屋!団子旨そうだった〜。」
「君、食べ物のことばっかり…銀行とか病院とか、そういう方が大切じゃないか?」
「それと、二人で散歩出来るスポットなっ!こんな風に人気がなくて、こっそりいちゃいちゃ出来るとこ…。」
「馬鹿…。」
駅前のコーヒーショップでお茶をしてからの帰り道。
初夏に向かう陽気の中で好きなヤツとゆったりした時間を過ごすしているうちに、疲れも吹っ飛んだ気がする。
「あ、この神社!部屋を見に来た時も通ったよな。桜が咲き始めようかって頃で…結局、一番綺麗な時期は見れなかったんだな。」
「しょうがないよ。そういう時期だったら人目に付いて手は繋げなかった。」
「お?覚えてるんだ?俺が無理矢理手を繋いで、最初はお前に拒否られたこと…。」
それには答えず、ズンズン通り過ぎようとする塔矢。……無視しやがったな、コイツ!
塔矢の態度に、どこか引っ掛かるものがあった。胸の奥がざわつく。それは俺の中に意地悪な気持ちを起させるような、そんな違和感だった。
「ちょっとお参りして行こうぜ。今日からよろしく〜ってさ。」
有無をも言わせず、手を引いた。誰に見られても構わないや。
「な、こういう境内の裏って、絶対静かだよな?昼間でも木が茂ってるからイイ感じ〜に薄暗くて…。」
「止せ、手を離してくれ。さっきも言っただろう?ご近所の人に見られたら…変な噂とか立ったら困る…。」
「ええ〜、あそこの二人は男同士で手を繋いで散歩して、神社の裏手に消えて行くって?そいで、何やらあやしげな喘ぎ声が聞こえて来て…。」
「進藤!ふざけるな。…帰る。」
「待てよ!そんなプンプンするなよ。わかってるって。一緒に住んでるんだから、別に家の中でだけいちゃつけばいいんだよ?人前で危険なことすんなって、そういうことだろう。」
「わかってるならいい。本当に帰るよ。」
「わかってねーのはお前だ、塔矢。二人きりの部屋で濃い〜ことすんのと、こんな風に外を歩いてるうちに自然と手を繋ぎたくなるのと…同じじゃねーんだ。全然違うんだって。」
俺は、逃げ出した塔矢の手をもう一度握った。抵抗されても離すつもりなんかない、本気の握り方だ。
「気持ちのいい空気じゃんか…桜は終わったけど街中に花の色が溢れて、いい匂いがして…何か幸せだなって思ったら、自然に隣にいるお前の手が握りたくなるんだって…ただ、そうやって歩きたいの…。」
「それは、僕だって…。」
「見られたら噂になる?そしてここに居辛くなる?だったら引っ越そう。買った家じゃなくて賃貸だ。いつでも引っ越せるよ。」
「何て短絡的なことを言うんだ、君は…また、行く先々で同じことになったら…。」
――塔矢の言う「行く先々」が、ただ住む場所を言っているんじゃないことくらい、俺にもわかる。
俺たちが生きていく世界、そのものを指しているんだとわかってる――
「いいじゃ〜ん、また引っ越そうぜ?それで何度も引っ越しを繰り返すうちにさ、もしかしたらどっかで俺たちを認めてくれるご近所さんに巡り合うかもしんない…。」
「本当に君は…。」
呆れたといった雰囲気で溜め息をつくと、塔矢はまだ握られたままの手に少しだけ力を込めてくれた。
大の男二人……温かい日差しの中……どちらの手なのか、ちょっとだけ汗ばんでる。
「…それもいいかもしれないな…死ぬまでにそんな場所が見つからなくて、ずっと後ろ指を指されても…世界中に君と僕、二人の居場所がなくなったら…逆に開き直ればいいさ。あとはもう堂々と、人目に晒されながら笑われながら…そうして二人で生きていくのもありだろう…。」
「…お?さすが、碁でも潔い塔矢若先生!負けました。…なーんちゃって。いざとなったら、お前の方がキッパリスッパリしてそうだな。」
「でも今はまだ駄目だ。」
そう言われて勢い任せに振り解かれた俺の手は、宙を泳いだ。
……でも、大丈夫。今夜も、この手は大好きなやつの髪を撫で、素肌を辿り、大事な場所へも触れることが出来る。
そして、二十本の指と指を交互に絡ませ合って握り締め、確かめ合うものが俺たちの間にはある――
「あのさ、塔矢…それぞれ部屋があるのはいいんだけど…やっぱ、今夜だけでも一緒に寝ない?」
「あっ!…そうだね、昨日は先に寝ちゃって悪かった…ご免…。」
俺から逸らした横顔が、ほんのり色付く。
「え?いいの?本当に?」
「いいのって…君の方こそ、そんな四角四面に考えなくてもいいよ。僕らには対局があるからそれぞれの寝床は必要だけど…そのぉ…そういうことの後には、一緒に眠るのもごく自然なことじゃないか…。」
「そだな…うん…じゃあ…。」
今夜もして、いい?広いベッドで思う存分愛したい。昨日の仕切り直し、させて?
声を潜めたのは、罪悪感じゃない。これは配慮なんだと納得して言ったんだ。
すると塔矢が、薄暗い社殿の陰でもわかるくらいに頬を染めて頷いた。
……っしゃ!心の中でガッツポーズだ。リベンジを誓う俺。
しかしその時横で、塔矢が弾かれたように顔を上げた。
「…あっ!そう言えば――僕らはもっと大事なことを忘れてたじゃないかっ!」
塔矢の大声が境内に響き渡る。
「新居に戻ったら、まず打つぞっ!進藤!」
「そっちかよっ!」
俺はもう笑い出すしかなかった。
お参りを済ませて目を開けると、塔矢の視線とぶつかった。
気まずそうに目を逸らしたアイツはさっさと歩き出す。俺が追いついたら、こっちを見ないまま言った。
「…もしかしたら君、ちょっと後悔してる?」
「はあぁ?後悔って…。」
昨日、俺が塔矢に対してチラ……と想像していたことを、今度は塔矢が口にするもんだから、ちょっと驚いた。
「いや、僕らは付き合い始めからすぐに一緒に住むことを前提にしていただろう。僕が丁度部屋を捜していたというタイミングもあったけど、これって考えてみたら早い展開じゃないか?」
「でも、俺らにはその前が長いからさ。」
「だけど一緒に住むってことは、随分違うよ。僕らは好き合っていたって、性格も生い立ちも随分違うし…。」
「ああ、そうそう。俺、お前とは気が合わねーってこと、山ほどあるわ!大体、俺らは気が合うとか趣味が合うから惹かれ合ったっつーんじゃないだろうが。最初っから上手く行く方が驚くぜ。」
塔矢が立ち止まって俺を見た。その顔に木漏れ日が踊っていた。
やがて、目元がふんわりと和らいだ。
「そうか…君がそんな風に思ってくれているなら…。」
「安心した?」
「ちょっと、ね…。」
「俺もだよ。安心した。喧嘩ってほどじゃねえけど何となくすれ違うってこういう感じかって、昨日は思った。わかり易い問題があって喧嘩する方がまだ気持ちイイかもな。そういうんじゃなくて、お互いに気を遣い過ぎたり空回りしたり…モヤモヤを溜め込んでいくのが一番タチが悪いかも…。」
「うん、そういうのは避けたい。ただでさえ、クリアしていかなくちゃいけないことはたくさんあるんだし…。」
「そうだよな。同居を承諾してくれたとは言え、俺たちの本当の関係を知らないお前の親父さんたちにも、いつかは……な。」
「君のご両親にもだよ。この同居は試験期間とかそういう曖昧なもののつもりじゃないから。」
「ひゃ〜、俺って掴まっちまったんだぁ、お前に!」
「何をっ!僕なんか、君に会った十二歳の時から捕まってるよ。」
「あはは…とっくにだったな、俺たちは。」
その時。風が吹き抜けた――少し先を歩く塔矢のいる方から、背後の俺の方へと。
「…ぁ…………何だか今、お前に手ぇ、撫でられた気がした。」
「撫でたよ。心の中で君の手を取った。今、繋いでる…。」
そこで塔矢が軽く手を掲げた。
軽く広げた手の平を、ゆっくりと握る。それから下へと下ろして、おどけた様子で左右に振った。
まるで本当に、塔矢が見えない俺の手を繋いでくれた様に見えた。しかもすっげえ嬉しそうに、子供みたいに、ブンブン振ったんだぜ?
俺も少し離れたところで軽く拳を作ると、それを振って見せた。
実際は繋がれていないのに、繋がれている二つの手――
もしかしたらうんとジジイになったら、人前で手を繋ぐことも出来るかもしれない。そんな時代が来るかもしれない。
――でも今はこれで十分。
両親や周りに対してどう理解を求めていくのか。愛し合いながらも棋士同士としては、どう死力を尽くして戦っていくのか。
共に乗り越えていくべきことは、たくさんある。
それでも。
この手の中に変わらぬ想いを握り締めている限り、俺たちはいつまでも一緒にいられるだろうと、楽天的でも浅はかでもいいから俺にはそう信じられた。