― 鏡の中の ―
いつの頃からだろうか。僕は鏡を見るのが嫌いになった。
正確には、鏡の中に映る自分の顔を見るのが嫌いになったのだ。
小さい頃は髪型のせいで女の子に間違われたりもして、お母さんにそっくりねと言われるたびにそうかな、自分ではわからないと何となく不愉快になったものだ。
それよりも僕はお父さんのような立派な棋士になりたい、見た目だっていつかお父さんのように堂々とした大人に成長するに違いないと信じていた。
今、鏡で見る僕は、大人の男の顔立ちにはなったものの、全体的には矢張り母に似ていると思う。
ただ。
細かいパーツというのだろうか…顎の尖り具合とか。眉の形とか。微妙に父にも似て来たような気がする。
「お前さ、塔矢先生に似てるな。碁盤を見下ろす顔がさ、こう…額が髪の毛に隠れて、睫毛が長くって…目がちょっとだけ細く鋭くなって…角度によってはドキッとするくらい似てんだよなぁ…。」
進藤に言われた時、僕は驚いた。
まさか僕以外でそんな風に感じている人がいるなんて思いもしなかったから。
嬉しいようなくすぐったいような気持ちになった後、段々心が黒いものに覆われていくような…そんな気がした。
曇っていく心は、どんどん大気中の水分を集めてその分重たくなるみたいだ…
母に似ていて、父にも似て来た。
親子なら当たり前のこと。
それが今、こんなにも僕を―――
そんな風に感じていたある朝のことだ。
進藤の部屋に泊まっていつもと変わらぬ朝を迎えてた僕は、顔を洗おうとまだTシャツ一枚で洗面所の鏡の前に立った。
そして。最近ではマジマジと見詰めることは避け、焦点を合わせないでおざなりに見るだけだった自分の顔から不意に目をそらせなくなった。
どうしてだかわからない。
その時の自分に何が起こってそうなったのか、わからない。
鏡に映る自分を見ているうちに、鏡に向かって吸い込まれるように僕は指を伸ばした。
冷たい鏡の表面に触れ、その中にいる僕自身の輪郭をゆっくりゆっくりなぞる…
無意識に声が出た。
「どんなに似ていても、この顔は僕で終わりなんだ…。」
口にしてしまってから、初めて自分の言葉の意味を理解した。酷く堪えた。
鏡に映る自分の顔を見るのが嫌いになった理由が、意識したくなかった理由が、僕を静かに切り刻んでゆく…
その時。
鏡の前で固まっている僕の背中が温かいものでくるまれ、思わず情けない声をあげた。
進藤が、背中から僕を抱いたのだ。
彼はまだ上半身に何も着ていない。むき出しの、若々しく弾む肌が呼吸に合わせて上下しているのが薄い布地を通しても感じられる。
「…お前、自分の顔を褒められるのが単に嫌いなのかと思ってた…棋力じゃなくて容姿に注目されるとさ、顔では笑ってても嫌そうな雰囲気がビンビン伝わって来るから…でも―――そうじゃなかったんだな…俺がわかってなかったんだ…。」
「進藤…暑いよ。そんなに強くされたら…。」
進藤の長くなった前髪が、まだ昨夜の激しい交わりの名残のように湿っていて僕の首筋を冷たくくすぐる。
僕はブルリと全身を震わせた。
そしてその震えを宥めるかのように、彼が一層強く僕を抱き込もうとする。
後ろから抱き締めて来るのは進藤のクセみたいなもので、ひたすら甘いだけのこの行為に慣れている僕なのに、今は違った。
進藤の動揺と苦しみが僕にも伝わり、でもだからといってそれをどうしてあげることも出来ないその時の僕は、ある意味、自分の感情を制御することでいっぱいいっぱいだったのかもしれない。
…逃げ出したかった。彼の腕から逃げ出して楽に呼吸したかった。
お願いだ。今だけは僕を離してくれ。お願いだから、この鏡の前から僕を解放してくれ…
僕は派手に身を捩って振り払おうとするが、進藤はますます強く僕を締め付けた。
「しんど〜、こおら…これじゃ顔も洗えないよ?ねえ、緩めて…くれ…話だったらまた後で…。」
明るい口調で彼を懐柔しようとしたのに、それも上手くいかなかった。
彼は腕で僕の全身を撫でさするようにし、足も絡ませて来る。唇が首の後ろだけでなく髪に、耳に、熱く押し付けられた。
抑えた故に切なさに満ちた吐息が動きと共に零れ落ち、僕の耳を犯した。体を支える力が急速に抜けてゆくようだ…
「したい…。」
「…え?こ、ら…。」
「今すぐしたいんだ…もう一回…塔矢…。」
「それと…さっきの話とどんな関係があるんだ。」
今度は強気に出てみた。
すると進藤は僕の腰を掴んで反転させ、僕らは正面から向き合う格好になる。
「ご免…体の快感で誤魔化そうとかお前を訳、わかんなくさせようとか、そんなんじゃねーけど…でも今は駄目だ…抱かせて…塔矢…お前をめちゃくちゃに、乱暴に…大事に大事に愛したい…。」
「言ってることが支離滅裂だよ…日本語がおかしいぞ、君…。」
「いいからもう黙れ…集中しろ…鏡を見るな――俺だけを見て…。」
進藤は僕の体を顔中にキスをした。呆れるほどたくさん、キスをくれた。
そして僕には黙れと言ったくせに、彼自身は喋るのを止めなかった。
「お前の顔、俺は大好き…俺はお前の顔が、お袋さんと親父さんにそっくりなその顔が死ぬほど――好き…。でも俺はもうどうしたってお前を手放すことは…自分から手放すことは絶対に出来ねえから…。」
その後に続く言葉は僕が唇で吸い取って、彼に言わせることはなかった。
「ご免」なんて言葉を言われたくないし、言わせたくない。
それは意味の無い言葉であり、僕らの過去と現在と、そして未来まで冒涜する言葉だ。
…その綺麗な顔そっくりの子供を抱かせてやれねえし、お前んちのDNAもここで絶えてしまうんだろう…
どんなに綺麗事を言ったって、それは俺と出会ったことと無関係じゃないってわかってる。
でも―――やっぱり別れるなんて俺には出来ねえ…
深く、激しく。お互いの魂まで吸い取ってしまいそうな口付けに溺れながらも。
進藤の言いたかったことが津波のような迫力で僕の心に寄せては、複雑に渦巻く感情の全てを押し流してゆく…
自分の言葉で深く傷付いたのは進藤も同じなのだとわかって
僕は彼しかくれない静かな悲しみと、何ものに替え難い幸せとを
同時にこの胸にしっかりと抱きとめた―――
デパートの上にあるホールで仕事があった帰りのことだ。
ホールから数階降りたところに小さな休憩スペースがあって、そこのベンチに腰掛けてお茶をいただいていたら、すぐ横に若い女性とその子供らしき小さな男の子と女の子が坐った。
三人で一緒にジェラートを食べている。このデパートでも行列が出来る人気店のもので、僕の恋人が好きなので時々僕も付き合いでいただくことがあるのだ。
お母さんがピンク色だからイチゴ味だな。…あ、それともカシスかも。子供たちはチョコレートだ。
あんまり可愛らしい三人連れだからか、つい、そちらをジロジロと見ていたのかもしれない。不躾だったかな。
お母さんがこっちを振り向き、驚いたように目を見開いた。
「!…………塔矢く…いえ、塔矢プロ?」
「はい?あの…。」
「あ、あ、御免なさい、急に…失礼でしたよね。あの私、囲碁を少し齧ったことがあって…塔矢プロでいらっしゃいますよね?」
そのお母さん…いや、お母さんなんて言うのもためらうくらい若くて可愛らしい女性は、ふわりと笑った。
初対面だというのに気後れすることもなく、しかし決してズカズカ踏み込む印象でもなく。
好ましい感じのする人だった。
不思議だった。
確かに仕事柄、初めての人にも常連さんにも、老若男女、色々な人に碁を教えるし、碁に関係ある話はもちろん雑談だってする。
だが、僕の性分なのか話が弾むとか、明るい笑い声が混じるとか…そういう場面はさほど多くはない。
だけど、この時は違ったんだ。
僕は最初から心に何の壁も感じることなく、まるで以前からの知り合いのような気安さを感じながら話していたと思う。
彼女はちょっと齧ったなんて言ったけど、碁界のことも棋士のこともよく知っていた。
子供たちは男女の双子で子育ては大変だけど、二人に碁を教えれば兄妹で打てるだろうからそうしたいと言った。
それからご主人も嗜むことを付け加えた時には、はにかんだように俯いた。
気が付いたら子供たちもすっかり食べ終えていた。お母さんと僕が話しているのをポカンと見ている。
「あっ!ゆうちゃん〜、手がドロドロじゃないの〜。」
どうも男の子の方がおっとりしているらしく、お母さんはハンカチで拭いてあげる。
女の子の方は我関せずというか、僕を見上げてやっぱりニパッ…と笑った。
可愛い…。思わず、僕は手を伸ばしてその頭を撫ぜてしまった。
「あっ!ダンナだわ、ヤバ…。じゃあ塔矢プロ、ありがとうございました!お話出来て良かったです。名人戦、頑張ってくださいね。」
「あ…どうもありがとうございます。」
慌しく両手で子供たちの小さな手を引き、何度も頭を下げてからその人は去った。
ご主人らしき人も、チラリと見えた。
ラフな格好ではあったが、そっち方面に疎い僕にもわかるほどセンスのいい今時のスタイルで上から下までをきめている。
歳も彼女と…いや、僕とも同年代だろう。
僕はどうしてだか目が離せなかった。
その親子の後ろ姿から、目が離せなくていつまでもぼんやりと見ていた。
二人が振り返らなくて良かった。もし振り返られたら嫌でも目が合ってしまい、きっと気恥ずかしくなっただろう。
その危険はあったのに、それでも僕はずっとその親子の姿が人波に紛れて完全に見えなくなるまでずっとずっと見続けていたのだった。
いつか
どこかで
こんな光景を見たことがあるような気がした。
まだ若い溌剌としたお母さんと、父になってもおしゃれに手を抜かないお父さん。可愛い子供たち。
男の子の手をお母さんが引き、女の子はお父さんが抱き上げる。
絵に描いたような、そしてどこにでも転がっているありふれた光景―――
それがどうしてこんなに、いつか見たことのある光景だと確信的に思えたのか。
はっきりとした理由は見えなかったが、きっと目にしたことのある映像とダブっているのだろうと、その時の僕は片付けた。
「塔矢っ!お前、あかりと会ったんだって!びっくりしたよ〜、アイツ子供連れて実家に遊びに来ててさ…あ、大阪に住んでんだけど里帰りとかで。デパートでお前と会って話をしたっていうからめちゃくちゃ驚いた。そんな偶然てあるんだなっ!」
数日後、僕の元へとやって来た進藤ヒカル―――僕の恋人は大声でまくし立てた。
「…え?まさかあの…ええっ、じゃ、あの女性は君の知り合いだったのか…それで…。」
「あ、そうか。お前は覚えてないんだ。中坊ん時、顔合わせたことはあると思うけど…あれから十年以上だもんな。」
覚えてないのも無理ねえや、と彼がカラカラと笑う。
僕は驚いたけれども一方でスッキリもして、何度も頷いた。
「あかりは幼稚園の時からの幼なじみでさ〜、中学ん時一緒に囲碁部にいて高校でも囲碁部作って…んで、短大卒業したら大阪行っちまったの。」
「そうか、だからあんなに若いお母さんだったんだね。凄く感じが良くて僕にもさり気なく気を遣ってくれて…。ああ、思い出した!君が依然、何度か幼なじみの話をしてくれたのを。お父さんも若かったけど…。」
「うん、実はアイツも…三谷も俺の中学時代のダチ…だったの。高校出て大阪でアパレル関係に就職して…んで暫くは遠距離恋愛してたみたいだけど、待ちきれなくてさっさと結婚してガキ作ったみたい。」
「双子だったね。可愛かったなぁ…お母さんにそっくりで…。」
僕は、進藤の友達夫婦の幸せそうな様子を思い出していた。
小さい頃の写真を見て、いつ、どこで撮った写真なのか思い出せなかったものが、急にストンと記憶に帰って来たような爽快感すらあった。
「そうそう、それでアイツ大変だってぼやいてた。でも、お前と話してる間は二人ともお行儀良くおとなし〜くしてたんでビックリしたとも言ってたっけ。」
「へえ、そう?まだ小さかったけど…。碁を教えたいとか、いくつくらいからがいいだろうかとか話したけど、あんな風におりこうにしているならすぐにでも、と答えたな。」
「え〜、だってまだ四歳になるかならないかだぜ?早過ぎるだろうが。」
「僕は二歳から石を握ったよ。」
「はあぁ〜、お前と一緒にすなっ!あっちは普通の家だって。」
「僕だって普通の碁打ちの家庭だよ。」
「おまっ!どこが普通だよっ!?いけしゃあしゃあと…。」
「あははは…そうだね、僕にとっては生まれた時からの環境だから普通でも、周りから見たらねえ…。」
「だよっ!オヤジがいつも着物でお袋さんが外商で買い物するうちなんてそんなにねーって!」
お前はおかっぱだし?と、僕らは互いを小突き合いながら屈託なく笑った。楽しかった。
最近では家族のこと、結婚のことはタブーになっているようなところがあったから、こんな風に僕らの間で自然な形で話題に出来ることが、単純に嬉しくもあった。
「なあ、お前、あかりのことどう思ったの?すっげえ話が弾んで…帰り難かったってあかりのヤツがさ…。」
いきなり話題が戻って驚いた―――僕らは既に、何も着てない状態でベッドの上にいたから。
同じ目線で横たわり、足首を絡ませて皮膚を重ねて僅かに上下させるだけで、甘い痺れがつま先から這い上がる。それは脚全体…感覚が集まった腰の辺り…背骨を通って辿り着いた僕らの舌をいやらしげに操った。
序章のような緩く、甘ったるいキスを繰り返していた時、進藤が言ったのだ。
「そんな…それほどでもなかった、と思う…あっ!―――しん、どっ…。」
キスに集中していた意識を、急に下半身へと引っ張られる。
大きな手の平は、すっかり慣れた手付きで僕の感じる部分と自分のそれとを熱の中で出会わせては、まだおとなしく半分項垂れているものをゆっくり、しかし確実な動きで育てようと捏ね合わせた。
「なあ、アイツのこと可愛いとか言っただろ?俺、そういうの聞き逃さないんだよ…。」
「え、そう、だっけ…っん!―――そこ、や…ぁ…キツ…。」
「言った、この口が。双子が可愛いって。あかりにそっくりで可愛いって。」
それってあかりのこと可愛いって思った証拠じゃんか…
実際に唇を親指の腹で撫でられ、同時に他の指を口内に突っ込まれた。
たった今まで、彼のものと僕のものとを束ねて愛撫していた彼の指は、苦い味がする。
あっという間に僕らの欲望の象徴は、先走りの液を滴らせるほどに堅く、大きく膨らんでしまっていたのだ。
進藤は意外と嫉妬深い。
勿論それは正常な範囲だが、まさか男である僕にそんな風に執着するとも思えずに、不意に突きつけられる独占欲に未だに驚かされるのだ。
―――お前が女のこと褒めると…ムッとするんだよ。
やっぱお前、本当は女と付き合ってみたいんじゃないかって…
女を抱いてみたいんじゃないかって………
以前、彼を問い詰めた時に返って来た答は驚くほど正直で、僕は拍子抜けしたものだ。
この前だってそうだ。
同性同士で愛し合うことの困難と辛さをどれだけ味わったとしても、誰かを裏切り泣かせたとしても―――矢張り別れることは出来ないと、僕らは確認し合ったばかりじゃないか。
「また、馬鹿なこと、をっ!大体あっちは人妻だぞっ…。」
「人妻だって…歳の差あったって…なんだって…恋に落ちる時は落ちるの…それが人間じゃん…。」
暗に――こうやって自分達のように同性だろうとライバルだろうと、落ちる時は落ちると。
そう言いたかったのだとわかって、僕は胸が熱くなった。痛みスレスレの、熱さだった。
…どうしようもない。
こんな風に気持ちの昂ぶりが体に真っ直ぐ伝わる時は、どうしようもなかった。
快感の塊みたいになった腰を彼のそれにぶつけ、尖った先で彼のものを追った。
敏感な薄い皮膚と皮膚が触れ合っただけでもプツリ…と、どこかから綻んで溢れそうになる。
同時に、僕の口元で流離っていた彼の指を甘く噛んだ。舌を絡めては、指と指の境目の感じる部分をその舌先で撫でる。
咥えたままで喋ったら、くぐもった声になった。
「どれだけ僕が君に夢中か…何度言っても、何年言い続けても…わからないんだな――君、頭悪過ぎるぞ…。」
「ひっでえ…そういうこと言うからわかんねえんだって…。」
反撃に出た彼は、僕の片足を口に含まれていない方の手で掴んで大きく広げさせると、自分自身を宛がって周辺をなぞった。
わざとすぐには挿れずに、ただ焦らすようになぞるのだ。ギリギリのところを突付かれる。
僕は、したくなくても腰がバタバタともがくのを止められない。
まだ中を弄られた訳でもないのに僕の前は限界まで来てしまって、呼吸一つしても響くような気がした。今にも弾けそうだ。
「今、何をしてるんだ…僕たちは――こんな…こんな恥ずかしいことをしておきながら―――誰にも見せたことのない場所…触らせたことのない場所、を…君に…君だけに…。」
「う、ん…そだな…意味は、あるんだな、ちゃんと…俺たちが抱き合っても…意味、は―――これは、ただ気持ち良くなる為だけじゃ、ねえ…。」
進藤がわざと伏せた部分がどんな内容であるのか、僕には容易に想像がつく。
つくからこそ彼はみなまで言わないし、まさに全身全霊で求め合っている時にする話題でもなかっただろう―――
僕は彼に同意するように、熱く待ち侘びている僕の中心へと彼を招き入れた。
二人で共に生み出す至福の快感は、重ねれば重ねるだけ快感以上の意味を持つようになるのだと…
背徳感を蹴散らすほどの勢いで、僕らは高いところへと駆け上がった。
終わった後、いつもは感じ得ない絶頂感にほんの暫くだが、僕は意識を失っていたらしい。
そしてその夢見心地の中で、僕はその光景をもう一度見た。
歳若いお母さんとお父さん。間には子供たち。
柔らかい光と温もりに包まれている空間。
そしてよく見ると
そのお父さんは
進藤だった―――
息子を抱き上げ、愛しい妻と娘を見詰める彼は、進藤ヒカルだった。
これは夢だ…
そう…僕が以前、見たことのある。
それも多分、一度だけじゃない。
フラッシュバックみたいに、夢でみたその光景が鮮やかに瞼の裏いっぱいに広がった。
進藤と結ばれた初めの頃、僕は、進藤が幸せな家庭を築いている夢を見たことがあったのだ。
だが―――
罪悪感に苛まれた僕は、それをなかったことにした。寝覚めの悪い夢を見たことを、記憶から消そうとした。
首尾よくいっていたと思われたそれは、進藤の幼なじみというとても近しい存在と偶然出会ったことで呼び覚まされたのだ。
…そうとしか、説明がつかなかった。
眠っていた光景が今、目の前にある。
僕は制御出来ない感情の奔流に足元をすくわれた。
「いやあああぁぁっ…っ――――…。」
「塔矢っ!?」
「…はっ!はっはっ…あ…。」
気が付いたら、目の前に進藤の顔があった。僕を覗き込む顔は、逆光でもわかるくらいに心配そうで青ざめていた。
「どした…意識飛んでるみたいだったから心配してたら…それで悲鳴だもん。お前、生きてんのか?大丈夫?」
僕は深呼吸をして、進藤を見た。
「あ、ああ…大丈夫だ…ちょっとだけ、幻を見たんだ…。」
「…まぼろし?夢じゃないの?」
「うん…もう、運命を決めてしまったから幻なんだ…僕が…いや、君と僕が、そうした…。」
進藤が、本当にお前、どこもおかしくなってないの?…とでも言いたげにもっと顔を寄せたが、僕は静かに微笑んで、それから腕を伸ばして彼を抱いた。
彼も何も言わずに、僕を抱き返してくれた。
いつか見たことがあると思った景色は
いつか見るかもしれなかった景色だった―――
進藤に、お前に子供を抱かせてあげられない…などと言われても、じゃあ君だって―――と、そこで僕は彼の立場に立って考えることをしなかった。自分のことで精一杯だった。
同じだ。彼も同じように「継ぐ」可能性のある人だったのに、それを捨てた。
いや、捨てるなんてネガティブな表現は正しくない。選ばなかったというだけだ。
彼が選んだ道は僕と同じなんだと―――それは同じ運命、同じ試練を選んだのだということを、今、初めて実感した僕だった。
そしてそういう気持ちになれたことを、心から有り難い、幸せだと思えた………
「塔矢…も、落ち着いた?平気?激しかったかなぁ…汗、いっぱいかいてる…。」
「うん…。」
「お前があかりのこと気にいってるみたいだから…俺、ちょっとモヤモヤしちまってお前にぶつけたトコあるかも…。」
漸く僕が落ち着いたと見た進藤が、苦笑いしながらも優しく問い掛けて来る。
僕も、彼の汗ばんだ蜂蜜色の前髪を指先で愛しげに弄んでいると、不意に考えるよりも先に言葉が口から飛び出していた。
「ねえ、進藤!君、もしかしたらあかりさんに好かれていた?」
「…え、何、それ…。」
「いや、どうしても言いたくないなら、踏み込むつもりはないけど…もしかしたらって…もっとうんと若い頃…僕とこうなる前か後かはわからないけど…あかりさんは君に好意を持っていなかったか…。」
「はあっ!?あかりが俺を!?…い、やあ…それは、ねえだろっ!そんな素振りは全然なかったってば!―――あ、俺、誤魔化してるんでも何でもねえからなっ!」
「そうか…。いや、ご免…変なことを聞いて悪かった。」
それが真実なのか、彼の優しい嘘なのか。
その時の僕には、もうどうでも良かった。
僕を苦しめた夢の中で、進藤の横にいたのが誰なのかなんて意味はない。
僕ではなく、他の人を選んだ「もう一つの進藤の未来」は関係がないのだ。
なぜなら僕たちは迷いなく相手を愛し、それが未来も続いていくと信じているから―――
心が晴れ渡るというのは、こういうことを言うのだろう。
閉塞的な毎日の中では決して濁りのない気持ちでは言えなかったことも、今なら言える気がした。
綺麗事ではこんなことを言いたくないと、頑なに思っていたそれを、今。
「あかりさんの子供に…君が碁を教えるのも、いいかもしれない…。」
「…え?なに…急に…お前お前、今の本気?だってアイツんちは夫婦とも打てるぜ?」
「本気だよ…アマに打って貰うのとプロとでは違うだろう。それに―――僕は君ほど嫉妬深くはないからね。」
「くっそ〜、それ言われるとなぁ…。」
「あかりさんの子供だけじゃないよ。もっと、たくさんの子供に教えることも出来る。どこかで二人で塾をやってもいいね。全国を回って出張囲碁教室もいいし、内弟子をとるのもいいかも。緒方さんもそうだったし、その前にも何人かいたんだよ。」
「ふうん…弟子、かぁ…どしたん?急に。そんな先〜のことを言うなんて今までなかったじゃん。」
不思議そうな声色で尋ねられたが、それには答えなかった。
「ほら、中国からいらした陳先生もご自身の自伝で書いていらしただろう?師匠と弟子は血の繋がりがなくてもいつしか体型も、顔立付きも、果てはクセまで似たりするって。真剣に向き合う時間が長いからね。」
「うん…それ、読んだ。お前に薦められて。そこんとこ―――ちょっとグッときた。」
進藤の声が、少しだけ低くなった。
彼の頬を撫で、彼の手を握る。
「こんな綺麗な目で碁盤を見下ろす様子とか…扇子を握り締めるクセとか…似ている弟子が出来たら…僕、どうしよう…。」
嬉しいけど、妬ましいかもしれないな…それとも…ドキドキしちゃうかな………
耳元で囁くと彼は照れ臭そうに笑って、それは泣く一歩手前の顔にも凄く似ていると思ったら、訳もなく胸が疼いて苦しくなった。