― 祈り ―
もうススキの穂も出揃って、風になびく様が、どことなく物悲しくもございますな。
池の辺りを徒(かち)でいらっしゃいましたか・・・水面を渡る風が、涼やかで気持ちの良いものです。その風にこそ、秋を感じるとお思いにはなりませんか?
今宵は、月も恥らうことなくその面(おもて)を見せてくれましょうぞ。一年で、最も美しい季節でございますから・・・
このような所でございますれば、何のおもてなしも出来ませぬが、杯の代わりに碁石を手に語り合いましょう。拙僧はどうにも、話が上手くございませんが、碁となれば別でございます。
いえいえ、拙僧の碁をそのように誉めていただくのは、面映いことでございます。まだまだ、そのように祭り上げられるほどの何ものでもございません。
ただ・・・碁は本当に好きでございます。
どんな時にも、決して碁石を手放そうとは思いませなんだ。
それは、この碁盤を私に託して儚くなられた、あの方のことが忘れられないということも、一つの理由でございましょう。あの方の分まで、私は御仏から与えられたこの命のある限り、打ち続けていく所存にございますれば―――
ささ、一局、お手合わせ願います。
・・・いやはや、なかなかの腕前でいらっしゃいますな!途中、何度も冷たい汗をかかずにはおられませなんだ。
楽しい碁でございました。このように心躍りましたのは、久方ぶりでございます。
何と?・・・この碁盤の元の持ち主のことを・・・あのお方のことを、もっとお聞きになりたいと、おっしゃられるのですか?
そうですか。拙僧が、幼い頃、あのお方に碁の手ほどきを受けておりましたこと、どなたからかお聞きになってここへいらしたのでございますね?
そうでございましたか・・・・・・・・・
いえ、ついつい懐かしさに言葉を失っておりました。申し訳ございませぬ。
私で宜しければ、あのお方のことを・・・あのお方と一緒に過ごしました暫くのことを・・・お話させていただきましょう・・・
佐為様のことを―――
拙僧がまだこの寺の稚児であった頃でございます。
この寺に、碁の指南に見えていらしたのが、大君の囲碁指南役であらせられた佐為様でございました。
それはそれはお強く、碁を打ってらっしゃる時は鬼神の如く気迫に満ち満ちていらっしゃるのに、碁を離れますと、お美しい面差しと相まって、とても柔和で、むしろお歳より若い印象すらお持ちの方でございましたな。
私は、佐為様が師と碁を打っておられる時に、お傍近くに控え、御用を賜るお役目でございました。
又、師が佐為様に文をお出しする時にお届けしたり、佐為様のお屋敷とこの寺の送り迎えに他の僧と共にご一緒することもございました。
お会いした最初から、私が佐為様に碁を教えていただいたのではございませぬよ。
勿論、佐為様と師が対局しておりますのを、盤面こそ見えませぬが、お二人が心から楽しそうにしておられるのを目の当たりにいたして、己も打ってみたいものよと密かに望んではおりましたが、それを言い出せる身分ではございません。
いつか、この望みの叶うことがあるとしたら、私が僧になってからのことだと遥か先に夢を託すしかございませんでした。
その私が教えを乞えるようになりましたのには、いきさつがございましてな・・・
ある日のことでございます。
それは、まことに偶然でございました。佐為様が碁の指南を終えられ、寺を後にされたのは、もう日もとっぷりと暮れてからでございました。
私は、その日はお供をするように言い付かりませんでしたので、以前からこっそりと餌などを与えて可愛がっておりました犬の元へと参りました。湖のほとりに小さな猟師小屋がございまして、そこでその犬達は私のことを待っているのでございます。
牛車でお出ましの佐為様より、先に私はその犬達の所に着き、明るい月光の元で犬達と戯れておりました。
ところが・・・突然、犬達が何かを聞きつけ、唸り始めたかと思うと、私を促すようにある方向に駆けて行くではございませんか。
やがて、人が言い合うような声が聞こえて参りました。何やら揉み合っているようでございます。
何と・・・その片方は、佐為様でございました。そして、もう片方は・・・佐為様をお送りした筈の僧の一人で、どうやら、佐為様に無体を働こうとしているようでございました。
「御指南役!どうぞ私を哀れと思し召しなら・・・どうぞ・・・お情けを賜りとうございます・・・!」
「お止めください!・・・お放しなされ・・・うっ・・・」
「佐為・・・様っ!」
私は驚きに足が止まってしまいましたが・・・犬達が吼える声が耳に響き、はっといたしました。
「あの方をお助けしてっ!」
私は犬達を僧にけしかけようとしました。犬達が、果たしてどちらが私の見方であるのかわかったものか怪しいのですが、佐為様が僧に馬乗りになられ抵抗されているのは一目瞭然でございましたので、僧を佐為様から引き剥がすかように襲い掛かって行きました。
私は、なす術も無くその様子を見守っておりましたが、犬達はよくやってくれまして、僧がほうほうの体でまろびつつ走り去ろうとしますのを、更に追いかけて行こうとしておりました。
「戻っておいで!お前達!」
犬の方に声を掛けて、佐為様の元へと駆けつけますと、もう起き上がり身を整えておいででした。
「大丈夫でございますか?お怪我は?」
「お前は・・・寺の亜古丸と申すもの・・・でしたね?」
「わ、私めの名を覚えてくださっていましたとは・・・勿体無いことにございます!」
私は、地に額を擦り付けんばかりに平伏いたしました。佐為様のお顔に小さな引っかき傷のようなものが見え、それをしげしげと見つめてはご無礼に当たると思いましたのも、頭を下げた理由であったかもしれませぬ。
「そのように恐縮せずとも良いのですよ。むしろ・・・私の方こそ、そなたに礼を言わねばなりませんね。お前と、犬達が私を助けてくれたのですから」
「そ、それこそ勿体無うございます。佐為様が、ご無事で何よりでございました。」
佐為様は、あちこちお召し物に草や泥がついておられ、私は御免とお断りしましてから、その汚れを払おうと努めました。
「ああ、そのようなこと、構わないのですよ。お前の手が汚れますよ」
「あの・・・牛車とお供の方は?」
「どうやら、あの僧にいいように言いくるめられていたようですね。牛車の様子がおかしいので、しばし降りて貰えないかと言うのに従って・・・気が付いたらさっさといなくなっておりましたよ!はっはっ・・・最近、召し抱えたばかりの者でしたからねぇ・・・」
佐為様のご様子は、このようなことに・・・一方的に懸想されることに慣れておいでのようでもございました。
確かに無理からぬことではございます。
佐為様は、このような言い方をお許しいただくならば、そこらの女人が逃げ出したくなるほどの整った面をされ、澄んだ瞳には輝く湖面のように光が揺らめき、小さなお口元は鮮やかな紅梅の色を思わせ、鳥でなくともついばみたくなるほどに・・・
勿論、碁を打っていらっしゃる時の雄雄しく猛るご様子も、何にも勝ってお美しいものでしたよ。
ただ、そのお美しさと、碁に賭けるお心の深さが、誰の目にも魅力的に映り、想いを寄せる者がたくさんおりましたのでしょう。その頃になると、私にも、そのような人の色恋が多少はわかるようになっておりましたから。
「さあ、仕方ないので、徒で帰りましょうか。亜古丸、供を願えますか?帰りは犬たちも一緒だから、お前は大丈夫でしょう?」
「は、はい!かしこまりましてございます!」
「ところで・・・お前に礼をしたいのですが・・・何が良いでしょう?」
「・・・え?」
「お前くらいの歳の者が喜ぶような、何か美味なるものがいいのか・・・それとも・・・」
「あの・・・それでしたら・・・どうか私めに碁をお教えくださいませ!!」
その時の私は、余程舞い上がっていたのでしょう。普段でしたら、決してお願いすることを憚るような望みを口にしておりました。
「碁・・・をですか?」
佐為様が一瞬驚かれ、そして次には優しく微笑んで下さるのを、私は夢でも見ているかのように呆然としておりました。それ程に佐為様の顔は、たった今その身に忌まわしい災難が振りかかったとは思えぬくらいに、嬉しそうに見受けられましたから・・・
「本当に、碁を教えるだけでいいのですか?」
「出過ぎたことを申しまして、どうかお許しください!」
「いいのですよ!亜古丸、私にとって、これ程嬉しい申し出はありません。お前のような聡い子が碁を覚えたいと言ってくれる・・・無常の喜びですよ!」
まことに・・・お言葉の一つ一つに、碁に対する愛情が滲み出ておられる方でした。
「では、師には私からお前に碁を教えたくなったと、何か上手い理由でも考えて文をお出ししましょう。そして、亜古丸が我が家に文を持ってきた時にでも教えてしんぜましょう。これまで以上に、師にはちょくちょく文や季節の御届物をせねばなりませんね。お前が度々我が家に来て、碁が打てるようにね!」
「ま、まことによろしいのでしょうか?」
「勿論ですよ!ただし・・・私は碁に関しては大変に厳しいですから、覚悟なさいな」
「はいっ!ありがとう存じます!!」
天にも昇る想いとは・・・このようなことを言うのかと・・・その身に余る幸せが、恐いくらいでございました。
こうして、私は佐為様に碁を教えていただく光栄に浴したのでございます。
お文を持って佐為様のお屋敷に伺いますと、縁側で御手ずからご指南くださいました。幸いに、私は佐為様のお目がねに叶ったようでございまして、筋がいいと誉めていただき、時には日暮れ前にお伺いしたのに、帰りは月が天高く昇ってしまってからということもございました。
そうして、月日は穏やかに流れていくように思っておりましたのに・・・
ある頃から、佐為様のお顔に、憂いのような表情が混じるようになり・・・碁を打っていらっしゃる時はいいのですが・・・その前後には、盤面をじっと見つめてもの想いに耽ってらっしゃる様子を、お見受けするようになりました。
今にして思えば、あの頃から、もうお一人の囲碁指南役の菅原殿との間の確執に頭を悩ませておいでだったのでしょう。
もう、秋の気配がそこかしこに感じられる頃でございました。
いつものように牛車でお屋敷に戻られる佐為様に従っておりましたら、ふと、従者に牛車を止めさせ、暫く池のほとりを散策するので待つようにと仰せられました。私に、付いておいでとお声を掛けられて・・・
そのようなことは初めてでしたから、私も不審に思いつつも、お供をいたしました。
丁度、今時分でございます。
私の背丈ほどもあるススキが風に吹かれて一方向に傾き、私はススキの海を泳ぐかのように佐為様に必死で付いて参りました。陽が傾き、水面を渡る風にはひんやりとしたものが混じる、そんな夕べでございました。
「亜古丸、碁は楽しいですか?」
不意に私を見返られ、それが余りに力なく、風に飛ばされそうな心許ないお声でしたので、私はたまらなく不安になったのでございます。
「はいっ!今の私には、心の支えでございます。いえ、生きていく甲斐と申しましょうか・・・」
「そうですか。確かに、寺の稚児がどんなに大変であるかは・・・この私にもわからないでもありませんからね・・・」
「・・・」
「私も・・・碁を打つことだけがこの世の喜びですから。もし、それを奪われたら・・・命を絶たれるよりも辛いことかもしれませんね・・・」
佐為様のお顔もお召し物も全てが、ホウズキ色に染められ、陽の当たっていないところは、より濃い影を作っておりました。
瞳には色があるのに、色が定かでないような不思議なご様子で、どこを見るともなく見ていらっしゃる・・・
お召し物からは、いつも焚き染めていらっしゃる香が匂って息苦しいくらいですのに、肝心の佐為様のお姿は、今にも消え入りそうに儚く感じられました。
「亜古丸・・・もしも私がどこか遠いところに行くことになって・・・お前と碁を打てなくなったとしても・・・お前は私を・・・いや、私のことは忘れ去っても、私と打った一局一局の軌跡を、忘れないでくれますか?」
「何を・・・何を申されますかっ!?」
「ああ、亜古丸・・・驚かせるつもりはないのですよ。ただ・・・この世は私には煩雑で、人の心は図り難たく、時に疲れてしまうのです。碁だけを打って、その精進にだけ没頭していたいと願っていた筈なのに・・・」
「・・・」
「生きていくことは、まこと・・・難儀なことですね。喜びなど・・・苦しみや悩みの雲間に時々顔を覗かせるお日様のよう・・・長い一生の中では、ほんの一時なのですね」
「・・・?・・・」
「ねえ、亜古丸・・・私は私なりにやってみたのですよ。全く興味の無い碁以外のことも、何とか己を騙して、うまくやっていこうと・・・それこそが碁を打ち続ける最善の道だと、言い聞かせて・・・。でもね、矢張り心のこもらぬことは、なに一つ上手くいかない。それどころか、糸が絡まりあうにも似て、悪くなるばかり・・・」
言葉を継ぎながら、それは私に聞かせる為というよりも、佐為様の独白のようでございました。
「今、やっとわかった気がします。人に出来ることは、画策することでもなく、取り繕うことでもなく、ただ、祈ることなのです。こうありたいと願うことを、全身全霊で祈る・・・その祈りこそが、人智を超えて、御仏の元に届くのでしょう。私は・・・自分ではいつも、碁だけを打って暮らしたいと祈っていました。いえ、祈っているつもりでした。でも、そこには魂が入っていなかったのです。お主上に重用され、己を省みることなく、いつのまにか奢っていたのでしょう」
聞きながら、私は体が震えて参りました。大切なものを今しもなくそうとしているのではとの怯えが、体に伝わったのでございましょう。
「そうなのです・・・亜古丸・・・どうか覚えておおきなさい・・・人に出来ることは、祈ること・・・ただし、形だけではなく・・・魂を込めて真剣に祈るということなのです。そしてこの私にも、ただただ祈るしか・・・最早、術は残されていないのですよ」
「佐為様が祈られることであれば、きっと御仏は聞き届けてくださいます!」
私は、必死でした。
佐為様を、どこにもお送りしたくなくて。
佐為様のお悲しみを少しでも払って差し上げたくて。
「佐為様、ご存知でいらっしゃいますよね!?お釈迦様は五百回もの生涯を・・・苦しいだけの人として生きられました・・・しかもそれは自らの意思でそうされたそうでございます!何故に、迷い多き忍辱業だけの人間界に生まれることを選ばれたのか・・・それは・・・」
「それは・・・人にしか出来ないことが、この世でしか出来ないことがあるからでございます!!」
「・・・人は時間に限りがあると、師が仰います。その割には、悩みや苦しみが多過ぎる・・・でも・・・でも・・・人間である間にしか、なし得ないこと、近づけない世界があると・・・」
それは、幼い私には難しいことでございましたが、この言葉しか、この真理しか、佐為様のお心に響くものはないのではという、本能が叫ばせておりました。
―――生きてください。お命を、大事にしてください。
どんなに苦しく辛くとも・・・人にしか出来ないこと、この世でしか出来ないことが、確かにあるのでございます―――
私は、無我夢中で佐為様の足元に取り縋り、泣き伏しておりました。嗚咽の合間にも、どうか私を置いていかないでください、どこにも行かないでくださいと声にならぬ声で訴えていたように思います。
私の恐れが佐為様のお心を少しでも動かしたのかどうか・・・それはもう知る術もないことでございますが・・・佐為様は、私の上にしゃがみこんで優しく頭を撫でてくださいました。
「泣かないで・・・亜古丸・・・どこにも、行きませんよ・・・これまでだって・・・これからだって・・・私は、お前と会えない時も、お前の打つ碁の中にいるのですから・・・そうでしょう?」
「佐為様・・・」
「碁を打ち続けておくれ・・・それが、私の今の祈りですよ。碁を打つ時こそ・・・お前と私は会えるのですから・・・それこそ、何度でも・・・」
顔を上げますと、佐為様が微笑んでおられました。
陽は翳り、都の郊外の深い闇がしずしずと忍び寄ってくる刻限で、辺りは藤色が支配しようとしておりました。佐為様の全身も薄紫色に染まり・・・お顔の微笑みは、私の生涯で見た中でも・・・最も淋しく・・・そして、凄絶なまでに美しいものでございました。
私は、まもなく命の火が消えるというお人だけが、このような表情を見せてくれるのだと、後に悟ることになるのでございます・・・
今にして思えば、あの時、もう佐為様の魂は、半分彼岸へと旅立たれていたのかもしれませぬなぁ・・・
佐為様が、菅原殿との対局の末都を追われ、やがて入水されたと都中が大騒ぎになりましたのは、それから僅かの後でございました。
私には、俄かには信じられませんでした。
確かに最後にお会いした時のことは不安でなりませんでしたが、その亡骸にお会いしたわけでもなく、どこかに身を潜めてらっしゃるだけなのではと微かな望みをつないでおりました。涙も、まだどこかで淡い期待が押し留めておりました。
気持ちが落ち着きましてから、私は佐為様のお屋敷を訪ねてみました。
荒れ家とは、このようなことを言うのだろうと・・・まだ幾日も経っていないのに、主のないお屋敷は変わり果てておりました。
佐為様は碁以外には頓着されないお方でしたが、それでも召し使っている者たちが、庭の手入れなどよくしておりましたから、華美ではないにしろ風情のあるお庭でございましたのに。
雑草が生い茂り、何もかも伸び放題、折角の萩や竜胆が押しやられ、縁側から覗きましたお屋敷の中も、当然荒れておりました。
言葉もなく佇んでおりましたら、何やら人の気配がしまして、女房というには身分のありそうな上品な女人が、その乳母らしき者と雑色と一緒にお出ましになったのでございます。
「お前は?」
「は、はい!御指南役に碁をご指南つかまつっておりました、・・・寺の亜古丸と申します」
「・・・ああ、佐為の君から、お前の話は聞いておりましたよ。とても筋の良い碁を打つ弟子が出来たと、喜んでおいででした。そうですか・・・お前が・・・」
「も、勿体無いお言葉でございます!」
「亜古丸は、佐為の君のことを聞いて、訪ねて来てくれたのですか?」
「はい・・・今だ都人の噂が信じられませなんだ」
「残念ながら・・・儚くなられたのはまことですよ。・・・そうそう!」
その女人は、わざと快活に振舞っておられるようにも私には感じられました。
「お前・・・これを貰っておくれではないかえ?」
女人が指差された先には、碁盤がございました。佐為様が私にご指南くださる時も使っておられた、まさに佐為様ご愛用の碁盤でございます。
「残念ながら、私はあまり碁が上手とは言いかねますし・・・間もなく都を離れるのです。しかも・・・佐為の君がみまかられてからわかったことなのですが・・・梅の季節には私、身二つになるのですよ」
その方は、お腹の辺りにそっと手をやりながら、恥らうかの如く微笑まれました。まるで、菩薩さまのようだと・・・私は内心手を合わせたくなるほどでございました。
「貰ってくれますね?亜古丸。きっとその方が、佐為の君も喜ばれるでしょう」
「はいっ!まことに勿体無いことでございますが・・・生涯大切にいたします!」
「・・・亜古丸。佐為の君のことは忘れてもいいのですよ。お前は若いのですから。でもね・・・どうか・・・佐為の君と打った碁は、忘れないでおくれ。いつまでも、あの方の代わりに、打ち続けておくれ・・・」
奇しくも、佐為様と最後にお話した時におっしゃったお言葉と、それは重なっておりました。
・・・亜古丸・・・私のことは忘れても・・・私と打った碁は、忘れないでおくれ・・・
・・・碁を打ち続けておくれ・・・
私はその時に初めて佐為様がこの世からいなくなられたことを、知ったのでございます。
止めどなくなく溢れる涙を拭う気力もなくしておりましたら、その女人が優しくかき抱いてくださいました。佐為様と同じ香の匂いに包まれ、私がどれだけ慰められたことでしょう。
このお方は、まことに菩薩様ではないのかと・・・胸のうちで唱えておりました。
・・・・・南無観世音菩薩・・・・・
おお、お若い方、そのように泣きめさるな。拙僧の話は、少しはあなた様に何かをお伝え出来たでしょうか?
その時にいただいた碁盤が、先ほども申しましたように、これでございますよ。今、あなた様と私が打った・・・
どうか、これをお持ちくだされ。
僧は心の上にも、ものの上にも、惜しむ気持ちを抱いてはなりません。ですから、これまでももしこの碁盤を所望する方が現れたら、お譲りする所存でした。ところが、この数十年、そのような方はありませんでした。
今夜、あなた様とお会いして、碁を打ち、私にはわかりました。
この碁盤をあなた様の手にお渡しする日まで大切に持っていることが、御仏が私にお与えくださった大事な役目だったのだということが―――
最後に、もう一度だけ言わせてくださいますか。
お若いあなた様が、もし人生は辛く苦しいだけの旅路と思われるなら、それは致し方のないこと・・・確かにそれは真実でございますから。
しかし・・・この世でしか叶わない夢、そして辿り着けない世界が、確かにあるということも、また真実でございます。
ですから・・・私達は人に生まれるのでございますよ。
私は、今も祈っております。
佐為様が後の世に転生されても、碁を打っていらっしゃいますようにと・・・。
そして、佐為様が遺された、碁を愛する心がいつの世にも受け継がれていきますようにと―――――
お題でなければ、こういう話は書かなかったかも。サイトを始めたばっかりで怖いもの知らず…というのもあったでしょうね(^^;
何せよ、思い出深い。登場人物の関係を想像していただけたら、尚、嬉しい。
人の生と死について考える機会があると、不意にこんな話を思い出したりします…