― 振り向く君 ―









進藤が無意識に見せる或る行為が心に引っ掛かり始めたのは、彼とプライベートで打つようになってすぐのことだった。



最初に違和感を覚えたのは多分あの時だ。北斗杯を終えてすぐ、若獅子戦の直前。
碁会所で二人きりで打っていた。
いつになく深い集中に入っていた僕らは、周りの音も様子も一切関係のない世界にいた。同時に、酷く昂奮もしていた。
結果、会心の一手を思いついた進藤が半目だけ僕を凌いだのだった。



僕が頭をあげハマを盤上に散らし、頭を下げた時。
進藤の体がフワリと浮き上がるような気配がして、そして彼は背後を振り返った。
体を大きく捻じったせいか椅子が床を引き摺る派手な音を立て、僕も弾かれてそちらを見る。

声がしたようにも思ったが、彼が何と発したのかはわからなかった。
彼がそんな動作をするなんて予想もしていなかった僕は、聞き逃したのかもしれない。



首だけでなく、上半身まで捻って背後に視線を向けていた彼は



―――彼は



彼はまるで魔法にかけられたみたいにそのままの姿勢で固まり



それから肩を落として、またゆっくりと正面へと向き直った。



ぼんやりと前を向いている進藤はとても不思議な顔をしていた。あるべきものがなかったという落胆とも少しだけ違うような気がする。
それまで僕が見たことのない、いや、彼が僕に見せようとしたことのない顔だった。
どこか遠くを見るような透明な瞳。言葉では言い表せない微妙な表情。
それは見るものの心までぎゅっと掴んで息を詰めさせるような力を秘めていたと思う。



……僕は黙ったまま、彼の次の言葉を待った。



しかし。それを僕に見られていると気付いた途端、我に返った彼は、何事もなかったかのように石を片付け明るく喋り出したのだった。



それから幾度か、進藤のその仕草を目撃した。
大抵はいい碁を打った後だったし、僕と二人だけの時が多かったと思う。

勿論そうではなくて、検討中に言い合いになった時など、誰かの同意を求めるみたいに彼が勢い良く振り向いたこともあった。
碁に関係のない、他愛のないことで盛り上がったりした時にもあったかもしれない。

いずれにしろ彼はそこに誰かがいるかのように振り向いては、あ、しまった…とでも言うみたいに、さり気ない素振りでなかったことにした。



―――後ろを振り向く

それも、僅かだか斜め上を―――



その仕草が一体何を意味するのか僕にはわからなかった。
不思議には思うものの、それを追求しようとか知りたいとかいう焦りもあまり湧いて来なかった。

ただ、その頃から僕は進藤を目で追うようになった。……確かそうだった。
いつからこんなに彼が、彼の碁と一緒くたになって気になり出したのかと問われれば、彼の振り向く仕草と、その直後に彼から漂って来る独特の空気がきっかけだったと今では言えるだろう。










彼の意味不明の仕草が気になり出してからニヶ月も経っていない頃だったと思うが、突然、僕は彼の仕草の意味を知った。
彼から聞かされたのでも僕が尋ねたのでもなかったが、わかる時はちゃんと用意されていたのだと思えば、それもまた不思議でならない。

「あっ!アキラ君、またアソコ見たでしょ?」
「…え?」

碁会所でのことだ。
数日前に模様替えをしたそこで、僕は何度も或る場所を見上げては、ああ、違った、もうあそこにはないんだと思い直し、別のところに視線を投げた。
―――視線の先には、掛け時計があった。

「私もそうなのよ〜、時計、何年もあの壁んとこに掛けていたじゃない?今回、レイアウトの関係で別のところに移すしかなかったんだけど、時間を見ようと思うとすぐにアッチ見ちゃうの。」
「市河さんも?そうなんだ…。」
「ふふ…人間の習慣って凄いわねぇ。簡単には修正がきかないんだもん!」

もう何年も同じ場所にあった掛け時計。
小さい頃からここに出入りしていた僕は、来るたびに帰りの時間を気にしては幾度もその時計を見上げたものだ。

腕時計をするようになってからもそれは変わらなかった。
この碁会所の、僕の定位置に坐っている時は、必ずそこにある筈の、あり続けて来た掛け時計を見て時間を確かめて来た。

―――だから僕はそこを見た。
そこにずっとあった時計を、完全に無意識に見た。
何度も同じことを繰り返してしまったというのに、それでもまだ暫くは幻の時計を見上げることになるだろうと予想もついた。



長年の習慣
染み付いた仕草
簡単には忘れられないもの



何かが降りて来たみたいに僕は悟った。進藤が後ろを振り向く、そのわけを。



そこに
彼の視線の、その先に

矢張り誰かがいたのだ―――彼の、とても大切な人が。



何度も振り向いては声をかけ、そこにいることが当たり前になるくらい長い時間そこにいた人を、進藤は視線の先に探していた。
だから彼は自分の失態に舌打ちしたり誤魔化したりしながらも、繰り返し繰り返しそうすることを止められなかったのだろう……



僕の体は静かに震え出した。
それは―――恐怖とも違うし、勿論、歓喜とも違うと感じていた。

知ってしまった。
わかってしまった。
ただ、それだけ―――

そのことで、体がガタガタと寒気に震えるみたいに小刻みに揺れてしまう。
肘の辺りに回した両手で体を抱きかかえ、必死で震えを鎮めることしかその時の僕には出来なかった。



進藤が振り向くその相手は、おそらく彼の棋力の謎に関わる人物なのだろう。
それは彼が胸に秘めている大切なことだ。誰にも触れることの出来ない、大切な……
そしてそれを大切にして生きていくことが彼らしさでもあるのだろうと、素直に認められた。

その頃僕は、まだ十代の半ば。
人としてはまだまだ未熟である割には、棋士として強くなりたいと思う気持ちが何よりも強烈であったかもしれない。海外の棋士との出会いによって、碁打ちとしての渇望が一層激しくなった時期だった。

そんな僕だったから進藤の碁に対する興味はいや増し、僕は彼がまた振り向くかもしれないと……
打ち終わった彼を、或いは普段の彼を、自然と目で追うようになったのだ。



時は淡々と流れ―――



やがて



進藤は



振り向かなくなった。



市河さんも常連さんも、そして僕もいつしか新しい時計の位置に慣れ、元の場所を見なくなったように、進藤も後ろを振り向くことがなくなった。

時計如きと同じ重さだったとは、思っていない。そんな軽い存在であった筈はない。

痛いほどに感じていた。彼の視線の意味を。その深さを。
僕に向けられたものではなくとも、その場に居合わせるという幸運に恵まれた僕は誰よりも彼を見ていたのだから。
彼のどんな小さな仕草にも表情にもその想いを感じて取れる自分でありたいと、そう思うようになっていったのだから。



進藤が振り向かなくなってから、随分経った。

僕は密かにそのことを寂しいとも感じ、その寂しさは僕だけのもので、それを胸に仕舞って彼の近くにいることが新たな喜びとなった。
誰も知らない進藤を知っている。誰も解けない謎の鍵を、僕だけが持っている。

彼が抱えているものが尊ければ尊いほど、僕の抱えているこの想いも純粋で尊い―――

それが、小さいけれどひときわ輝く灯火のようにいつも僕の心の真ん中にあった。
……あり続けた。長い間。










進藤と結ばれたのは、もしかしたら神様の気まぐれだったのかもしれない。

進藤も僕も狂おしく相手を欲しながらもどこかで、そこまで求めて許される筈はないんだ、そんな簡単に幸せになっていいものかと、年齢にしては達観した感覚を持っていた。

いや……そんな大そうなものでもなく、ただ臆病になっていただけかもしれないが。

進藤は後に僕に語ったけれど、矢張り若い頃に大切な人が去った記憶が自分の根っこにあり、それが僕に対する恋情の歯止めにもなっていたそうだ。
だから自然な成り行きで僕らが気持ちを確かめ合い、その末に体を重ねた夜、僕らはがむしゃらに相手に想いをぶつけるだでけでなく、相手を本当に幸せに出来るのだろうかという不安も同じくらい感じていたと思う。

「信じらんねえ…こんなにいいなんて…こんなに…夢中になっちゃうなんて…。なんか俺、お前のことが好き過ぎて…苦しいかも…。」

掠れた声が、甘い手が僕を包み、素肌が重なるぬくもりに心が溶け出しそうに幸せだった。
初めて故のぎこちなさもあったけれど、膨れ上がり留まることを知らぬ愛しさは体のあちこちから滲み、溢れ出しては、僕らの全てを余すところなく濡らした。
数え切れないほど濃い口付けを交わしても、どれだけ激しく体を絡ませ合っても、長い間気持ちを押し込めて来た反動は大きく、足りない感が拭えずに愛し合い続けた。

「うん、わかるよ…苦しいね…嬉しくて舞い上がりそうな気持ちは行き過ぎると…胸に強過ぎて痛めそうだ…。」

ここを、と。進藤のまだ汗の引かない弾力のある胸に、広げた手を這わせる。

「あ、あ、ぁあ…そんなとこ、絶対にお前の手に触られる日が来るなんて思ってもみなかった…。」
「イヤか?」
「ち、ちげーよっ!だからまだ夢見てるみたいで…頭、フワフワしてるんだって…。」

おかしなこと口走っても許せよ、と進藤が唇を尖らせた。

「そうだね。男同士だから当たり前だけど、僕らは出会ってから何年も手を握ったことすらないんだし。」
「手…手…って言えば…あっ!そうだ…お前、俺の手を握ったことあったじゃん!」
「え?」

何気なく言った僕の一言に、進藤が思いがけず反応した。

「ほら!まだ小学生の時、お前と会ってすぐの頃だよ。お前、俺の手を握ってじーっと見て…それから鬼みてえな顔で俺のこと睨んで無理矢理碁会所に引っ張ってったろ?」
「あ、ああ、あれか…そう言えばそんなことも―――何だって?君ぃ、今、聞き捨てならないことを…。」

僕は身を起した。進藤もつられて起き上がる。
布団の上に向かい合って坐った僕らは、すぐそばに互いの瞳を捉えていた。幸せに潤み切った瞳を。

「だーって!お前、すっげえ真剣で怖いくらいで…俺、ちびりそうだったんだぜ?」
「あはははっ、馬鹿なこと言うな!全く君は…でも確かにあの日の僕は今思い出しても…ちょっとキてるかな?」

子供だったんだよ、真っ直ぐに向かって行くことしか出来ない時期だったんだ。

「懐かしいなぁ…う〜ん、今思い出してもあれはビビる。」
「…でも―――鬼は酷いだろう!」

ふざけて彼の肩を小突くと彼が大袈裟に背を丸め、それから言った。

「だってお前は碁の鬼じゃんか〜…なあっ!?あん時の塔矢ってばガキのくせにめちゃくちゃ怖かったよな…っ…て…―――ぁ…………。」

進藤は振り向いた。彼の後方、少し斜め上を。ブン…と、音が聞こえそうなほど勢いつけて。



僕もはっとなって彼を見る。

甘ったるい空気が一変して凍りついた。



進藤は振り向いた格好のまま固まっていた。
その横顔が静かに、とても静かに震え出すのを、僕もまた黙ったままで見ていた。



「…っは…は、は…俺ってばアッブねーヤツみてえだな…誰もいねえのに…何だよ…あはは、
…。」

進藤の声も力なく震えていた。

必死で取り繕うとしているのだと思うといたたまれなくなって、僕は横顔の彼に抱きついてしまう。
体を密着させると彼の全身から震えがさざ波となって伝わり、やがて僕の心も共鳴を起したかのように熱く、切なく、絶え間なく震え始めた。
そしてその振動は、長い間言うつもりのなかったことを僕に言わせたのだった。

「わかっている…わかっているから…いいんだ…進藤…変じゃない…君が振り向いても僕は変だとは思わない、から…。」
「塔矢?…え…。」

僕は強く彼を抱いた。僕に出来ることはそれしかない。
ただ彼を僕の全部で抱き締めて、僕にはわかっていると、それでもここにいると僕の温もりで伝えたくて伝えたくてどうしようもなかった。

「そっかぁ…お前、やっぱ大昔の俺の…そういうの、気付いてたんだ…は、は…。」
「うん…。」
「おかしいよな?これって何年ぶりだろ…っふ…もう何年も…本当に何年もこんなことなかったんだ…最初の頃は自分でも驚くくらい何回も振り返って声出して…そのたんびに気持ち切り替えて…。」

彼の目から零れたものが、僕の首筋を冷たくしていった。それは僕の鎖骨から胸へと、肌に染み込みながらゆっくりと伝い落ちる。
僕はひたすら優しく彼の頭を撫で続けていた。

「何でだろ…何でこんな…っ…ずっと振り返ることもなくなってたの、に…今になって…何で…っ…。」

そうだった。
最後に彼があの謎の仕草をするのを見てから…おそらく四年以上の月日が流れていたと思う。
彼の中で徐々に消化されていったのだろう、大切な人との大切な時間。
その間に彼のクセもすっかり消えていたというのに、今、この時に蘇ったのは何故だろう?

一体何が数年もの時を経て、彼を振り向かせたのだろう―――



「…塔矢…聞いて欲しいことがあるんだ…。」
「そうか…。」
「お前とこんな風になっていいなんてずっとずっと思えなかったけど…でも、神様が…アイツが許してくれたんだったら…もう、話しても…聞いてもらってもいいのかもしんない…。」

彼が顔を上げた。
まだ幼さの残る顔立ちに大人の陰影が加わり、彼は凄くいい顔になった。いい男になった。
例え涙でぐちゃぐちゃに汚れていようとも―――

彼を見ているうちに僕の胸も熱いもので満たされ、彼から目を離せないでいる。
きっと彼は二度と、偶然にしても二度と振り向くことはないだろうと僕も、そして当の進藤本人もわかった上で前に進もうとしていた。



四年以上もの長き時を経て。彼が幼い日のように大切な誰かに振り返ったことは、僕には小さな奇跡にも思える。
彼と僕が出会い愛し合うようになった奇跡にも等しく、それだけの重みがあると信じられた。

もしかしたらその人は今の進藤には見えなくても、すぐ傍で僕らのことを見詰め祝福の微笑を投げ掛けてくれているのかもしれないと思ったが、僕は口にはしなかった。

―――進藤も全く同じことを感じてるだろうと確信があったからだ。



僕が万感の想いで微笑むと、進藤も笑った。泣き笑いの顔だ。
僕らは微笑んだままで互いに回した腕を深くし、矢張り微笑んだままで唇を寄せた。



彼の心もそうであるように、今、僕の心も大きな何かに包まれて、とても穏やかでとても温かい……



唇が重なる寸前に閉じた僕の目尻からも、愛しい人に初めて見せる涙が零れた。



幸せな涙だった。











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