― ひとりでできることじゃない ―
ホワイトデーの夜だってのに若手の棋士数人で飲み会をした。
一緒に過ごす彼女がいない淋しい野郎どもの、淋しい集まりってとこだ。
だけど、ホワイトデーっつうーもんはバレンタインほど切羽詰ってはなく。ただお返しをするだけの日だと思えば、そんなに気にすることもなく。
俺たちは自分らの状況を茶化して笑えるくらいの余裕はあった。
「おい、進藤。塔矢つかまってるぞ。」
「…あぁ?」
小宮に言われてそっちを見ると、丁度テーブルの端にいた塔矢は隣の女性グループに声を掛けられていた。数人で取り囲まれるような状態で、何かを尋ねられているらしい。
俺はさり気な〜く塔矢と女どもの間に割り込んで壁を作る。
「あぁ、どーもーっ!綺麗なお姉さん方、コイツそろそろ門限だからさ、連れて帰りまあっす!」
「門限〜っ!?男でっ!?」
ぎゃはぎゃはと品のない笑い。俺は愛想笑いを浮かべて言う。
「そうっ!コイツお坊ちゃまだからさぁ。ほら、今時おかっぱの男なんていないでしょ?」
「進藤、それは…。」
何か言いたそうな塔矢の腕を掴んでその場を後にした―――先に帰ると仲間に目配せをして。
後ろで小宮たちがうまくやってくれているのがわかった。
女も男もいっしょくたになった笑い声が起こり、そのどよめきに背中を押されるようにして塔矢と俺は店から転がり出た。
夜の街に出ると、急に呼吸が楽になったようで気持ち良かった。煙草と食べ物の匂いが充満していた部屋とは全然違う。
夜空には満天の星。
冷たい分だけ澄んでいる空気。
そして―――隣には、塔矢アキラ。
俺が今夜、大勢の中に紛れてでも一緒にいたくて、その様子を一番知りたかった塔矢だ。
煙草を吸おうかと思ったけど、梅の花がどこからともなく薫って来るのに気付いて、俺は一端は取り出した箱をポケットに仕舞った。
横にいた塔矢が綺麗な右手を口元にスーッと運んでから、笑っているのを隠すようにして体を揺らした。
人差し指を鍵形に曲げ、下唇に触れるか触れないかの距離に置く。
考え込む時にも時々見せる仕草は、こんな場面で見るとまた違った感じがした。
こいつ…どんどん綺麗になる…くっそぉ…自覚がない分、罪作りだ…
さっきの女どもの目付きを見ただろう?皆が皆、お前に釘付けになってぼーっとしてた…
「何だよ?何が可笑しいんだよぉ…。」
「拗ねるな、ちゃんと遠慮するんだなと思って…花の香りのせいだろう?煙草の匂いで消さないようにって…君って時々、見た目と違うことをするからなぁ…。」
「別に…わかった風な口、きくな。気分わりぃ…。」
…あ、今の言葉にムッ…とするかなと塔矢を横目で伺ったら、意外にもその表情は柔らかかった。
不意に、塔矢が俺へと向き直った。
足が止まり、俺もはて…と、今度はきちんと振り向く。
「進藤…もう、止めないか、こういうことは。」
―――静かな声がした。
俺も、声の主を静かに見詰め返した。
周りの音が聞こえなくなった。空気の流れすら、止まった気がした。
夜が一段と濃くなる時間帯、だったのかなぁ…
「気が付いてないとでも思っているのか?僕が、この数年間…。」
「なに?お前、何言ってるの?わっかんねえ…。」
視線を合わせたのは失敗だったかもと思う。
思うけど、もう遅い。逸らしたら何もかも終わりになるような気がして、逸らせない。
「君は面白いね、同じ男性としてバレンタインのチョコレートの数を気にするならまだわかる。実際、芦原さんなんてあの歳になってもアキラ、いくつ貰ったって訊いて来るくらいだ。でも…。」
「…でも?」
「君が気にしているのはバレンタインじゃない。そうじゃなくて…僕がこの日にお返しする相手を気にしているだろう?」
思わずゴクリ…と大きく咽喉が鳴った。
悔しい…悔しい悔しい悔しい…こんなん、絶対聞かれたくなかったのに!
「だからわかったんだ…君は僕が誰から貰うかを気にしているんじゃなくて、僕が誰にお返しするのかを気にしている…君の関心は、この僕自身に向いているんだって…。」
違うか?と―――塔矢が微笑みながら言った。
それは慈愛を感じさせるような…子供のいたずらを見つけては怒るに怒れなくて苦笑してしまうような笑いにも見えた。
こんな風に笑われたら俺、ムチャクチャ居心地悪いじゃんかっ!この馬鹿ヤロウッ!
―――って思う。
それをそのまま口にしてしまおうかと咽喉まで出掛かって…
でも、俺は口にしたことは全然違った。突っ張るのに疲れたのかもしれないし、潮時だと観念したのかもしれない。
自分で自分が掴めないまま、俺は口を開いた…
「…どうして急にんなこと言い出す?」
情けないくらい、声に力がなかった。
「どうしてだろう…そうだな、僕も君の気持ちを感じていながら、ただ君が言い出すのを待っている…そう、僕だって同じだ。踏み出そうとしない、ずるい、卑怯なヤツだってことに気が付いたのかもしれない。」
「気が付いた…。」
「うん、だからさっき君が彼女達に嫉妬してくれたから…これから先もこんなことを何年も繰り返して、不毛に年を重ねるだけかもって…。」
「塔矢…。」
「一体―――何が僕らを躊躇わせているんだろうな?進藤、君はどうして言わない?まさか、僕に拒絶されるとでも?そうじゃないよね。たとえ一度は僕が断ったとしても、それで僕らの友情まで壊れるとは思えない。だってそれぞれ他の人と結ばれたとしても、僕らはきっと誰よりも近くにいるだろう。誰も入り込めない絆があることは、もう嫌というほど感じて生きて来たから…。」
「お前、色々考えたんだな…じゃあ、こういうこともちゃんと考えたんだろうな?」
俺は堪え切れずに手を伸ばした。
塔矢にここまで言わせておいて何もしないなんて卑怯なこと、俺には出来ない。
人気がないのを確かめてから、そっと抱いた…
あああああ、心臓がばくばくばくばくばくばく…言ってる…
わかるわかる自分でもわかるううう…絶対に聞こえてる、塔矢にも絶対に…
まるで暑い盛りに舌をダランと伸ばして荒い息を繰り返す犬みたいに、俺の息は大きく、荒くなる…み、みっともねえ…
その時―――
俺の緊張をブチ破るくらい凄いことが起こって、心臓は全力疾走どころか停止しそうになった。
塔矢が、腕を上げたのを感じた。
それからその腕が、俺の背中を下から上へとゆっくりゆっくり撫で上げたかと思うと…
塔矢の手が俺の後頭部を抱えて前へと押し出すから、ほとんど同じ目線の俺たちは真正面から向き合う格好になった。
息がかかる…塔矢の、温かい息が…
覗き込んだ瞳は既に潤んで、きらきらと光を揺らしているのが見えた。
意外な寒さのせいか、感情の昂ぶりのせいか。俺には判断出来なくて、じっとその光に吸い寄せられていた。
やがて切れ長の目が細められ、あ、あ、あ、目の淵から雫が零れそうと思った途端、視界が塞がれた。
目の前が真っ暗になった―――多分、塔矢の顔で。
キスされているんだとわかるまでたっぷり数秒はかかったと思う。
喜びよりも驚きが勝るって、こういう場面を言うんだな…
押し付けられただけの唇でも、キスはキスだ。これまでの関係を壊すキスであり、新しい日を始めるつもりのキスだって、凄くよくわかった。
泣きたいくらい、よくわかった…
腕に力を込めて、強く掻き抱く。強過ぎてキスは解けてしまったけど、その分、鼓動が響き合うくらいに抱き締め合った。
昨日まで出来なかったことを今出来ている悦びに、全身が震える。
塔矢もきっと同じだったんだろう…塔矢の深く長い溜め息が、俺の心を蕩かしていく…
「いいんだな?もう、絶対に引き返さない。お前を離さない。一緒にどこまでも行くんだ。いいんだな?」
「君こそ嫌じゃなかったか?僕からされて…男同士はやっぱり、なんて思わなかったのか?この先に僕らを待っているたくさんの困難が過ぎったり…全くしなかったと言えるか?」
塔矢の顔は怖いくらい真剣だ。他人が見たら、怒りをあらわにしていると思ったかもしれない。
でも俺にはその顔が―――心から嬉しかった。
塔矢からの究極とも言える問い掛けには、俺からのキスで返した。
今度は最初から唇を開いて、塔矢のそれも開かせる。差込んだ舌を熱い口内でぐるりと泳がせて、それから奥深く沈めた。
絡まって来るものをこちらからも絡める。迷わずに吸う。甘く、噛む…
ああぁ…スゲー、気持ちイイ…か、感じる…
初めてのキスなのに、こんなに濃厚にしちゃっていいのかなぁ?それもこれも、我慢に我慢を重ねて来た末だからなのかなぁ…
「嫌も何もあるか。こんなキスだって、初めてなのに平気で出来ちゃうんだぜ。お前こそ大丈夫なのかよ?こうなったら俺はもうお前を抱かないで済ませられないからな。わかってる?俺が―――お前を―――抱くってその意味…。」
「それはこういうことか?」
塔矢が耳を寄せて囁いたことは、信じられないような言葉だった。
吐息を吹き掛けられた耳が、真っ赤に染まるのを自分でも感じる。
とても塔矢の口から飛び出したとは思えない言葉は、俺の心も体も熱くするのに十分だった。
「お、お前…信じられねえ…んなエロいこと。俺を煽ってんのか?」
「煽る?僕がしたくもないことを言って、君をからかっていると?」
「じゃあ、お前…今、言ったこと、本当のホントーーーに俺と出来るんだな?」
「出来るかどうかは君にもかかってるだろう。確かに僕には考える時間はたっぷりあったけど…でも、一人でできることじゃない…あ、碁と一緒だな?はは…。」
「コイツッ!何、余裕かましてんだよっ!だったら行くぞっ!さっさとついて来いよ。」
「あっ―――!」
塔矢の手を握って、力いっぱい引いた。
行く先なんてどうでもいいけど、ともかく今夜はこの手を絶対に離さない、今、お前が口にしたことを現実にするまでは諦めないからなと叩き付けると、横で塔矢が笑いを噛み殺したのが見えた。
例の、曲げた人差し指を口元に添えた仕草のまま、俯いてる。黒髪が揺れる。なんか…可愛いの…
その、抑え切れずに零れ出る笑顔を見せてくれるだけで、その夜の俺は幸せだった―――