― 初恋 〜それからの二人〜 ―
「なあ、そろそろ…いいんじゃねえの?」
「…は?」
「だ〜から〜、そろそろ…お前も慣れて来ただろ?」
進藤の言いたいことが最初はわからなかった僕も、彼がキスを終えて離れたばかりの僕の唇を意味深になぞる指先に、はっと気付かされる。
「いい?もう…心の準備、出来た?」
「それは…んと…ええ…。」
「体の方はすぐ思い出すと思うんだ。だってキスだってあっちゅー間に慣れただろ…やり方っつーか雰囲気っつーか…。だからエッチしても俺の抱き方を思い出してすぐにアンアンヒイヒッ………
バキバキドゴ―――ン!!
「だだだ黙れっ!!」
「…ってーよお…お前、絶対、その凶暴性は記憶失くしてからだ…っくそ…。」
「君が悪いっ!僕は…キ…キス…だけだって凄く緊張して…君が近くに来る、と…。」
そうなんだ。僕は、進藤が進藤が近くに寄って来るだけで動悸がして落ち着かなくなるというのに、これ以上先に進むなど今の僕にとって容易な筈もない。
しかも…しか、も…
段々わかって来たことだが、僕の方が受け入れる方だったみたい、だし………
僕が口ごもっていると、進藤がまた包むように抱いて来る。
最近では僕がどんなに怒鳴ってもド突いても、懲りずに速攻で復活する。そして、甘ったるい言葉と態度で僕を解きほぐそうとするのだ。
「塔矢…今も?こうやって俺が腕を回すだけで…お前の背中、強張ってる…。」
「だから…記憶さえ戻れば、きっと何でもないことだと思うんだけど…。」
ゆっくりゆっくり。進藤の腕が僕の背中を行き来する。
温かい…触られている場所だけでなく、体温そのものが上がっていくみたいだ。
ちゅ…。触れるだけのキスをこめかみにされた。続いて耳に。うなじに。頬に。
最初はくすぐったさにモジモジするだけの僕だったが、次第に甘い疼きが、胸の奥から湧き上がるのを感じる。
「しん…。」
「黙って…集中して…ほら…。」
「ん…―――っ…。」
口付けられた。今度こそ唇に。
そう、ここに欲しかった。彼の、ちょっと厚みがあってその分弾力もあって、自在に動いて僕の唇をくるみ、揉み、吸う、その唇が欲しかったのだ。
しばらくは唇同士で戯れるようにキスを繰り返す。薄く開いても、入って来ない。彼も、勿論僕も。
角度を変えながらただ触れ合っているだけだと、もどかしさばかりが募る。我慢出来ずに僕の方から先に舌を差し入れて、彼の舌を夢中で撫でた。
待ち構えていたみたいに、彼が僕の舌をきゅう…と吸う。深く、絡ませる。そのまま、また強く吸う。
僕も負けじと、奥深く、彼を探るのだった。
腕も、足も、出来る限り絡ませ合った。
最近では僕も要領を覚えたというか、進藤の言うように体だけが思い出したのかもしれないが、最初はあちこちをゴツゴツとぶつけ(進藤も僕も、どちらかというと痩せ型だし、女性のようなふくよかさはない)ぎこちなかった男同士の抱擁も、ようやくしっくりと来るようになった。この一ヶ月の成果というやつだ。
そして今は―――今は近くなりたい…もっともっと近くなりたいと心が悲鳴をあげて進藤を求める。
「もっと…近くになりたいんだ…。」
「…え…。」
胸の奥で渦巻いていた欲望が、進藤にも伝わったのだろうか。彼が言葉にして僕の思っていることを言ってくれた。
「近く…これ以上は近くなれないくらい…。」
「うん…。」
ほとんど唇をくっ付けたままで囁かれる。痺れが背筋を駆け上がる。
「だろ?お前もそう思うよな…だから、一つになりたいんだ…。」
お前の中に入って、それがどんなに幸せな感覚だったか、お前にも思い出して欲しい。…ううん、今のお前に新しく知って欲しいんだ。
―――急に、頭に浮かんだ。
進藤と僕は、裸で抱き合う。
僕の両足を開き、その間に彼が滑り込んで来る。
そして、誰にも見せたことのない(今の僕にとっては)場所を彼に見られ、触ら、れ………
その時、本当に進藤の手が背中から降り、その場所近くを撫でた。服の上からではあったが。
「あああっ!駄目だ駄目だ駄目だっ!まだそんなこと…。」
結局―――僕に突き飛ばされ、ポカン…と口を開けたままの彼を残し、僕は彼から逃げ出す。
こうやって僕は、未だ、彼をがっかりさせることしか出来ずにいるのだった。
記憶を失くして三ヶ月目に、僕は自分の「秘密」を知った。ライバルで親友の進藤ヒカルと愛し合っていたという重大な「秘密」を。
それは、進藤をもう一度愛し始めた大切な日でもあった。
それから更に一ヶ月。記憶は相変わらず戻らないが、体調も碁の調子もすこぶるいい。
そして、進藤が今の自分にとってもなくてはならない大切な存在だということも、日々実感している。
それなのに、僕の中には躊躇いがある。理由はおそらく―――僕がベッドでは女性役だったという…信 じ が た い 事 実 。
僕は心から進藤が好きだったんだろう。それはよくわかる。
だって記憶を全て失くし、過去の一切も家族の顔すらも思い出せなかった僕なのに、進藤のことをもう一度好きになってしまった。浅からぬ縁とはこういうことだ。
しかし、僕らが同性であるということはプラトニックにおいては問題ないが、体も含めてとなれば………
そこで思考が一旦中断される。考えたくない。どんなに体も心と同じくらい近くなりたいと願っても、生理的な反応はいかんともし難い。
大体、僕は最初からホモセクシュアルだったのだろうか?
いや、そうじゃないからこそ、今、戸惑っているのだ。
それだったらと、いざ上下を入れ替え僕が進藤を抱く…と想像しても、それはそれでうまくいかないのだ。あの逞しく育った進藤を、僕が組み敷く?進藤のアソコに僕が、はい………
わーっ!!やっぱり駄目だ駄目だ!!
彼と打っている平穏で幸せな日常とは、それは余りにもかけ離れた世界に思えてならない。
一体、この戸惑いを、昔の僕はどう乗り越えたんだろう。
どんな風に乗り越え、そして進藤と結ばれたんだろう。
「なるようにしかならない。碁が打てて進藤がいれば、それで十分幸せ」という安定期から、もう一歩だけ先に進まなければならないのではという想いが膨らんだのは、そういう訳だったのだ。
そんなある日、進藤が合コンに参加するという話題が出た。
それは和谷君の研究会に進藤が遅刻し、僕が先に着いた日のことだ。
記憶を失くしてからの僕は以前の僕よりも社交的らしく、こうして若手の研究会にも誘われるし、参加もする。
こんな状態になればむしろ引き篭もりそうなものなのに、実際の僕は、外の世界に出るのが嫌ではなかった。
「進藤さ、とうとう観念したらしいぜ。この前、ちょっとアイツの代打で仕事代わってやってさ、その借りを返すってことで。へへ…。」
「そんな理由で合コンに引きずり出すのか…和谷もちょっと酷いんじゃないか?進藤、彼女に義理立てして絶対に行こうとしなかったのに。」
「伊角さん!それじゃあ俺が極悪人みたいじゃんか。大体進藤は恐妻家過ぎなの。俺たちに紹介も出来ないような女なのにさ、ズッゲー気を遣ってるみたいで…合コンなんて黙って行ったってバレやしねえのに!」
「まあ、それはそうだなぁ…進藤もさ、まだ若いんだし結婚とか決めてる訳じゃないなら、合コンくらい息抜きに行っても許されるんじゃないかー?」
横から口を挟んだのは本田さんだ。
進藤の秘密の恋人である僕は、気持ちはソワソワと落ち着かないが黙って聞くしかなかった。
「なあ、塔矢、お前も行く?今度の合コン。体調もいいみたいだし、昔よりは柔らか〜くなったお前なら、合コンくらい平気じゃねえ?」
「…え?あ―――ぼ、僕?」
いきなりふられて、面食らった。…僕が合コン?進藤と同じ合コンに参加する?
全然ピンと来なくて、キョトンとしたままそれ以上声も出ない。
「お?塔矢がその気になってる?昔のお前だったら合コンなんて結構だ!…な〜んて即、お断りだろうにさ。やっぱ今のお前はイイぜ。話がわかる。」
「塔矢君が合コンに来たら盛り上がりそうだなぁ…ははは…。」
伊角さんまで能天気に笑った。
「ばーっか!塔矢は合コンなんて行かねえよっ!」
皆がぎょっとなって振り向くと、そこには遅れて来た進藤が立っていた。不機嫌そうな表情を隠しもしないで。
…全く何だ、その拗ねた顔は!こ、こっちが照れ臭くなるじゃないか…
「ぎゃっ!お前、いつの間に…。」
進藤が和谷君の頭を、持っていたコンビニの袋で叩いた。和谷君が頭を抑えて大袈裟に呻く。他の皆もたじろいだ。
「大体さ、塔矢が合コンに来ちまったら、オメーらみんなかすんじゃって女ども持ってかれるのわかんねえのかよ?」
確かにそうだ、目玉は上等過ぎるとコッチが不利だ…なんて、僕のことなのに僕のことなんか無視で話が進んでいるのを、当の僕はぼーっと聞いているだけだった。…その時、進藤がどんなことを考えているのかわからないまま。
転機は、その帰り道に訪れた。
「送ってく。」
「え?いいよ、大丈夫だって。駅までみんなと一緒だし、もう一人でも…。」
「いいから。話、あるし。」
「でも、明日の朝は早いし…話なら今、ここで…。」
そこで進藤はキッと僕を睨んだ。
皆は地下鉄の駅まで歩くというが、進藤はバイクだった。僕に乗れ、とメットを渡す。
彼の目付きはいつになく鋭く、このまま別れてはいけないんだと思った僕はそれを受け取った。
家の前で、バイクを降りる。
進藤も降りるのだろうかと、僕は彼の出方を待った。
「お前…俺のこと警戒してるの?」
「い、いや。別に…。」
「じゃあ、合コンに行ってもいいんだな?俺が行くって聞いても、お前、全然平気そうだったよな。」
「それは…。」
そこで進藤は頭を大きく振り、苛立ちを露わにした。
「お前、変わった…前と違う…合コンの話なんて、ヘラヘラしながら聞いてるヤツじゃなかった…。」
「それは………しょうがないだろうっ!」
「聞けよ…お前は俺に対して、もっと貪欲だった…信じられないかもしんないけど…スゲエ嫉妬深かったし、スゲエ積極的だったし…。」
「僕が…。」
「言わないでおこうと思ってた。昔のお前のことは、お前が全部思い出すまでは封印しておこう。今とは違う。別人だ。…だから今の、ありのままの塔矢アキラを大切にしようって…。」
「進藤…怒ってるのか?だって、合コンに行くと和谷君に返事したのは君の方じゃないか?僕が気分を害するならまだしも…。」
「じゃあ、お前はどうなんだっ!合コンに誘われてもすぐに断らなかったじゃんか!ちょっとは…まさか、ちょっとは行ってみたいって…。」
強気だった進藤の口調はどんどん崩れていき、最後は今にも泣きそうな顔になった。
それを見ているうちに、僕の胸もシクシクと痛み出す。
「…ご免…俺が焦ってもどうしようもないってわかってる…でも、一度お前に触ったらもう以前の塔矢ばっかり思い出しちゃって…キス、だけで…我慢出来な…。」
「進藤…。」
僕の方こそご免と言えたらいいのに、それがなかなか言えない。まだ―――心のどこかで引っ掛かるものがある。
「お前、やっぱ嫌なのか?男の俺と、なんて…。折角忘れちゃったんだから、一からやり直したいって、女とも付き合ってみたいって…。」
「ば、ばかっ!そんなこと思う訳ないだろう!だったらあの日、君に告白なんてしない…僕にしてみれば命がけだったのに…。」
「や、や…塔矢、ご、ごめ…俺…お前が、俺だけじゃなくて皆に愛想がいいし…前は他のヤツとはろくに話もしなかったのに…。」
―――やっぱり比べている。比べられているのだ。
そう感じた途端、僕は一気に爆発した。
「一体、僕はどんな人間だったんだ?え?…昔の僕の話はたくさんだっ!聞きたくないっ!」
はっとなる。思わず、手で口を覆った。ここまで言うつもりはなかったと、自分で自分に衝撃を覚える。
しかし、既に口から出た言葉は取り消せない。
進藤はしばらく呆然と僕を見ていたが、やがて弱々しく笑うと、メットを被ってエンジンをかけた。彼はまだ、バイクにまたがったままだったのだ。
今更何も言えず、僕はただ、走り去るバイクのテールランプが小さくなっていくのを見送るしかなかった―――
僕が記憶喪失になってから、これが初めての喧嘩らしい喧嘩だった。
それまでも言い合いになったり、じゃれ合いの延長のようなことはあったが、今度は僕らの関係の核心に触れる深刻なものだった。
多分。僕よりも、進藤の方が辛い。苦しいのだ。
僕はまだ記憶を取り戻していないから、以前の自分を知りたいという気持ちはあるものの、その頃の自分に戻りたいという渇望は強くない。
棋力も戻りつつあるし、後遺症もなく健康だ。進藤も傍にいてくれる。
だけど彼は違うのだ。彼は、記憶を失くす以前の塔矢アキラをしっかりと覚えている。
僕を見るたび。キスをするたび。以前の僕を想わずにはおれない。
情熱的で嫉妬深くて、碁と進藤以外の人間には無関心で、そんな自分を隠そうともしない真っ正直な塔矢アキラを。
どうしたらいいのかわからなかった。僕は本当に、混乱していた。
もっと早く彼と話し合うべきだったのかもしれない。僕は、彼に甘えていたのだろう。冷静になればそのことがよく見える。
でも―――
すぐに彼のところへ飛んで行って、それを伝える勇気が今の僕には出ない。
どうして…どうしてこんなことになったんだろう…
僕は、どうして記憶喪失になんてなってしまったんだろう…
考えても考えても頭が痛くなるばかり、心が荒れるばかりで、無為に数日を過ごした。
そしてやっぱり先に会いたいと電話をして来たのは、進藤の方だった。
久しぶりに会った進藤は、心なしかやつれているように見えた。目にも、最後に会った時のような力強さがない。
僕らは進藤が指定した都心の大きな公園で会った。どうしてここでと訊ねると、電話の向こうから暗い声がした。お前と、最後に別れたところだから、と。
その公園で、僕らはデートしていたんだろう。近くで映画を見て、食事をして、それから仕事で地方に行く進藤を見送ることになっていたそうだ。
「お前の携帯…俺が持ってた。」
「やっぱり君が…。」
不意に進藤がそれを見せた。ベンチに腰掛けてすぐのことだ。
「お前と俺、喧嘩しちゃってさ。お前がこれ落っことしたの拾ったけど、俺、すぐに電車に乗んなきゃいけなかった。でも、お前から連絡ないのは喧嘩しているからだって思い込んでたから…しばらく連絡なくても変だとは思わなかった。」
まさか、その間に何かが起こって記憶喪失になっていたなんて―――
苦しそうに言う進藤の横顔を、僕はそっと盗み見た。
嬉しい…喧嘩していたことも、これからのことに悩んでいたことも、全部嘘みたいに進藤と会えただけで嬉しくてならない。
彼はというと…僕の携帯を名残惜しそうに手の中で弄んでいた。
「これを、記憶喪失になる前の塔矢アキラの形見だと思って持ってたんだ。形見なんて言い方はご免な。以前の塔矢も、今のお前の中に生きてるってわかってるけど、でも…。」
進藤の嘘のない言葉が、僕の胸を刺す。深く、えぐる。
「あっ!でも、中は見てないって。それだけはしてねえって。誓って!…ただ、お前が持ってたそれを大事に仕舞ってただけなんだ…きっと、その中には俺が送ったメールや画像がいっぱい入ってる…それを、記憶を取り戻していないお前には見られたく…いや、見せたくなかった。」
隠しててご免…もう返すよ…と、ようやくそれを渡された。
手におさまった瞬間から馴染む感触は、本当にこれが僕の携帯だったのだと教えてくれる。
「進藤、ちょっと待ってくれ。これを返すってことは、君…。」
「そうだな…俺も吹っ切ろうと思って。お前にもう一度好きになったと言われた時は、これで全部解決したんだと思った。でも、そんな簡単な話じゃねえよな。俺らが恋人だったことは、お前の記憶が戻るまで…封印しておくよ。」
進藤の言う意味を、まだ深く理解したくなくて―――
僕は彼から目を逸らし、何気に手の中の携帯を開いた。
パスワードの設定はないらしい。僕はメールを開け、そこに進藤からの着信と、僕からの送信メールがたくさんあるのを確かめた。
「君…本当にこれを見ていないのか?」
「うん…それだけはしてない。…っつか、俺の携帯にもお前のメールは残ってるし…たださ、ずーっと大事に仕舞ってたんだ。机の奥に。」
「少し読んでもいいか?」
「いいもなにも…お前の携帯だ。」
僕は、暫く夢中になって僕から進藤へ送信されたメールを読んだ。
日記もブログもつけていなかった僕にとって、これだけが過去の僕の生々しい記録であり、生き様だ。
そして。
読み進めるうちに。
僕は溢れて来るものを止められなくなった。
こんなに僕は、進藤を愛して愛して愛して愛して愛して………
嫉妬の言葉も、拗ねる言葉も、何一つ隠さずに、それこそ赤裸々に綴られていた。
短い、他愛のないやり取りは一日に何度も。数え切れないほど往復している。
長いメールには早く会いたいだの、寂しくて気が狂いそうだの、君にめちゃくちゃにされたいだの…今の僕だったら身悶えして消去したくなる言葉だらけ…
進藤から受け取ったメールも似たようなものだ。
時には碁に関係する内容もあるにはあるが、大抵は恋人同士特有の、とても人には見せられないような意味のない言葉の羅列。
携帯を持ったまま泣き出した僕を、進藤が心配そうに見ているのに気付いたのは、もう殆ど読み終えてからのことだ。
「大丈夫か?いっぺん過ぎて…刺激が強かった?」
「進藤、君…。」
泣いているのは僕の方だけかと思ったら、僕を覗き込む進藤の目にも光るものがある。驚いた僕は、携帯を携帯を取り落としそうになった。
「俺、行くわ…もう、お前に迫ったりしない。キスもしない。安心しろ。」
あ、俺は行かねえけど、合コン、お前は行ってみれば?いい子がいるかもよ、お前がフツーに恋愛出来るような…
涙を見られたのが悔しいのか、本当に僕に愛想をつかしたのか、ぶっきらぼうに言い放って進藤は立ち上がった。
「待って!」
僕も、すぐに立ち上がる。
そしてぶつかる。全身で、進藤の背中にぶつかった。
そのまま腕を伸ばして、後ろから彼を抱いた。初めて、僕から彼に抱きついた。…手を、伸ばしたんだ。
携帯が落ちた音が足元から聞こえたが、もうどうでも良かった。
あの小さな箱の中にいた塔矢アキラはまだ帰って来ないけれど、僕はここにいる。進藤ヒカルをもう一度愛し始めた僕はここにいるんだと、叫びたかった。
「嫌だ…行くな…行かせない…。」
「塔矢?」
「昔の僕には戻れないかもしれない。記憶が戻らない限りは、その…メールみたいな…恥ずかしいことはとても言えない…かも…。」
ゆっくりと、進藤が体を捻じって向き直る。僕らは自然と、正面から抱き合う格好になった。
いつしか、こうやって抱き合う形がとても自然で、体にも心にも馴染むようになっていたことに自分で驚いた。
「お前、なに泣いてんの?ばっかじゃん…すました顔が台無しだぜ?」
「き、君こそっ!鼻の頭、真っ赤だぞ。トナカイみたいだ。」
「ガキっぽい例え言ってんじゃねーよ…は、ははは…。」
それからは、もう言葉はいらなかった。
進藤の顔が泣き笑いから真面目なものへと変化していく様子に、ぼーっと見惚れていた気がする。僕は、きっと凄く間抜けな顔をしていただろう。
やがて静かに重なった唇は、二人分の涙のしょっぱい味がした。
進藤に待てない、今すぐ抱きたい、お前の気が変わらないうちにと、矢継ぎ早に囁かれ、気が付いたら僕らは、公園の近くに立つシティホテルの部屋にいた。
ドアが閉まった途端、息も出来ないくらいの激しい口付けが始まった。
角度を変え、幾度も唇を合わせ直す。その度に切ない吐息が零れ、唾液が溢れ、口内の甘さを味わい尽くすように、強く吸い合った。
「初めてキスした日から…会えば必ずキスしてたの…わかってた?この前、最後に会った時は…出来なかったけど…。」
「え、え?そうだったっけ…。」
「そうだよ!お前の体にキスの味を思い出させたくて…っつか、新しく叩き込むっつーの?」
「ふん、偉そうに…キスのやり方も、いちいち前の僕と比べてるのか?」
睨み付けたら本当にシュン…とした顔を見せる彼に、ますます愛しさが募った。
「ご免…比べたりしない…それだけはしちゃイケナイってわかってるから…お前に失礼だよな?だって、俺、今のお前が好きだもん。少しばかり性格変わってても…お前はお前だ。」
「そうだよ。僕は今からもっと凄くなるからね。以前の方がよっぽど可愛かったって…君が逃げ出したくなるほど…。」
折角、最高の笑顔を見せたつもりだったのに、すぐに唇を塞がれてしまった。
もつれ合いながらベッドに辿り着くと、あっという間に僕らは裸になった。素肌と素肌が出会う。服越しでは決して得られない感覚に、身も心も瞬時に燃え立った。
「ああぁ…すげえ…も、俺、舞い上がっちゃって…ど、しよ…。」
「な、にが…っ…。」
「だってすぐ…イっちゃいそう…お前の肌に触れるの…もう四ヶ月以上ぶり?」
「あは…そうか…どうだ?僕の体は…変わった?」
恥ずかしさもここまで来ると、突き抜けてしまったようだ。
彼が僕の裸をじろじろ見るというよりも、大きな手で、擦るようにして辿ってくれるのが心地良かったというのもある。
「バカ言え…そのくらいの時間で変わるかよ?お前は綺麗だ…全然変わってない…初めて抱いた時も、男なのにどうしてこんなに俺を昂奮させる体してるんだって…不思議で不思議でしょうがなくってさ…。」
言葉を紡ぎながら、進藤の唇は僕の肌を濡らすことも忘れない。
唇以外に、唇で触れられるというのも慣れなくて、身を捩ったり仰け反ったりしていた僕だが、やがて体の奥に芽生えた疼きが、波のように広がり始めたのを感じた。
ああ…もう…僕も、限界…だ………
経験したら二度と忘れられないという進藤の気持ちも、わかり過ぎるほどにわかる―――今なら。
進藤が念入りに胸の頂きとその周辺を口で愛撫した時、羞恥に消え入りそうだった。女性とは違うのに、女性のそこみたいに愛されることが酷く恥ずかしい。
周辺ごと大きく含まれ、ちゅう…と、音を立てて吸われた。その間も彼の舌は尖った先を捏ね回す。
膨らみもないのに揉むように胸全体も優しく撫でられ、甘い声を抑えられないほど気持ち良かった。
―――こんな風に、記憶を失くす前の僕も愛されていたんだな。
それがどんなに幸せなことなのか、今、全身で感じながら僕は悦びに打ち震える…
重ねた全身を乾いたシーツの上で波打たせると、ぶつかり合う男同士が、否応なく僕ら二人が同性なのだということを思い出させる。
そんな迷いを吹っ切りたくて、僕は自ら進藤のそこに手を伸ばした。
「あ、ああ、ぁ…塔矢…いいの?俺の、触っても…平気?」
「うん…君も………う…っ―――…。」
僕がねだるより先に、進藤は僕のものを握った。慣れた手付きで、彼のものと僕のそれとを重ねる。
熱い…もう、どちらの手がどちらのものを握っているのか、わからない。一塊になった熱は、先端から冷ますようにしたたり落ちるもので濡れ始めた。
「手も、腹も…ぐちょぐちょになりそ…っふ、ぁ…溢れてるよ…どっちも…。」
「ど、すればいい?…あ…このまま出して…いいのか?」
「うん…最初は一緒に、イ、こ…。」
そこからは、狂気だった。そうとしか言えない。
進藤の手が、僕を導くようにして上下し始める。最初はゆっくり。次第に激しく。
彼の荒い息も、僕の喘ぎも、一つに溶け合いながら、手のリズムに合わせてどんどん加速する。
「イイ…凄く…めちゃくちゃ感じる…お前は?塔矢、お前もめちゃくちゃ感じてる?」
「っふ…ん…そんなこと、聞くな…あああぁ―――っ、あ、ああ、あ…。」
信じられないことに、僕は自ら腰を振っていた。進藤の肌に指を食い込ませ、腰で腰を追い掛けていた。
進藤の体重を受け止めた僕の頭が、背中が、爪先が、糊のきいた清潔なシーツを乱していくのを感じ、それも僕を煽るのだった。
達した瞬間は、どちらが先だったのかもわからない。
硬直する全身。声なき悲鳴。
跳ねる腰と腰とを狂ったように押し付け合い、ベッドが軋むほどに揺さぶった。
「…も、力が…入らない…。」
「ナンだよぉ…もっと色っぽいこと、言ってよ…。」
「…体力がいるらしいというのは、よーくわかった…。」
「はあぁ…っそ…でも良かっただろ?感じまくってたよな?」
その質問に素直に頷ける僕なら、こんなにまわり道していないよ―――どうしてそれがわからない?
プイ…と横を向いた僕の肩に、そっとキスが落とされる。進藤の温かい息が、くすぐったさを誘う。
身震いした僕を見て、ああ、お前、そのくすぐったがりのとこ変わってねえ…すぐにブルブルって震えるのか〜わい〜…と、嬉しそうに言った。
こういうのを身の置きどころがないというのかなぁと、まだ昂奮さめやらない頭で考える。こんなに気持ちのいいことをして、こんなに愛情深く扱われて…
―――あれ?
それでどうして僕らは喧嘩なんかしたんだろうと、不意に疑問が湧いた。
「あー…それはな…お前がつまんねえ嫉妬するもんだから、俺もとうとう切れかけて…。」
「そうだったのか…。」
昔の僕だったらそういうこともあったのかもしれないなと、納得する。
メールの言葉はどれもこれもストレートで、その分、痛々しいくらい進藤への愛に満ちていた。進藤を愛し過ぎて、苦しそうにも思えた。
そんな僕だからこそ、悩みも深かったのだろう。
…もしかしたら、僕の中に眠るもう一人の塔矢アキラは、今はまだ、目覚めたくないのかもしれない―――
将来に悩み、迷路にはまり込んだ僕は、その頃の記憶を失くした結果、安寧の時を得たのではないだろうか。
進藤とのことも、僅かながら違った道筋を辿ろうとしている。もう一人の僕は、それを静かに見守っているところなのかもしれない、と。
有り得ないことを考えていた。
「どうした…やっぱこういうの、終わっちまうと急に恥ずかしい?それとも何か…小難しく考えてる?」
進藤の怯えたような声が聞こえ、はっと僕は現実に戻る。
「や、そうじゃないけど…記憶を失くす前の僕のこと、ちょっと考えていた…。」
「ふうん…ヒトゴトみたいに言うな。まだ、そういうもんなんだ?」
「そうだね…日常のことは断片的に思い出したりもするけど…でも、やっぱり大きな事実はね…。」
「苦しい?イライラしたり…する?」
寝そべって話しているうちに、トロトロと眠気が襲う。進藤が、幼子にするみたいに髪を撫でているせいだろう。
「だから…僕は碁が打てて、僕も家族も健康で…それで君が横にいれば、思い出してもそうでなくても…本当にどっちでもいいんだ…その気持ちは変わらないよ。」
「そっか…お前のそういうとこ、ネジが一本飛んじゃったみたいで、前よりイイ感じだよ。…んで、これからはそのぉ…エッチもしていいんだよな?」
「あ、あっと…そうだね…う、ん…。」
駄 目 だ あ ・・・・・
この手の話題になると、一気に僕の中の何かが切り替わる。逆行する。
昔の僕なんて、メールでは「早く裸の君に抱かれたい。君を、飲み込みたい。朝まで抜かせない。」(ぎゃーっ)とまで平気で書ける大胆さを持っていたらしいが、今の僕はてんで駄目だ。
ここまで進んでも、やっぱり慣れない。慣れないものは慣れない。
俯いた僕の手を、進藤が引いた。
「やったっ!っしゃ…じゃあシャワー浴びよ?ベトベトだしな!」
「え、ええっ…ちょ…まさか、一緒に!?」
「あったり前じゃんか〜、エッチの後はいつも一緒だったぜ?じゃないと嫌だって、お前が我がまま言ってたんだからな。」
「風呂場なんて…狭くて男二人、洗い難いだろう。」
「洗う?マジで風呂に入ると思ってんの?バッカだな〜、風呂場でするんだよ。あの湯気がもうもうとしてるとことか、声がこもるとことか、最高にエロいんだよ。お互いの体を泡だらけにして、乳首とか○○○○とかヌルヌル擦り合わせると、んもう最高にイ………
バッチン!ドンッ!ドサ…
「以前の僕の話はもういいっ!今度そんな、は、破廉恥なことを言ってみろ。その口を二度ときけないようにしてやるぞっ!」
「ベッドから突き落とすこたねーだろっ!…ってえなぁ…。」
「あ、あは…ははは…情けない格好だな…素っ裸で…股を開いて…っふ、ふふふ…。」
「コイツッ!もう容赦しねえっ!もっとスゲエことして、本当に泣かせてやるからなっ!」
伸び上がって来た進藤にベッドの上で下敷きにされ、僕は再び、オスの目をした彼に口付けられたのだった。
―――そういう訳で、僕はまだ記憶を取り戻せずにいる。
でも、生きている。元気に碁を打ち、進藤と愛し合い、毎日を生きている。進藤の言う「スゲエこと」のいくつかも、まあ、何とかかんとか…出来るようになった。
いつの間にか、進藤の「以前のお前は…」というセリフを聞く回数が減って来た気がする。
慣れとは不思議なものだ。人間とは、不思議なものだ。
記憶を失くす前の塔矢アキラには不慣れな僕だが、今では進藤の方が新しい僕に寄り添い始めている。
どちらの僕も、僕だ。それは、動かし難い真実。
時折り、僕は戻って来た携帯を開き、自分の打ったメールを読み返す。
そして、赤面しては乱暴に閉じるのだ。
進藤が以前の僕の形見だと言ったそのメールを読むと、昔を懐かしむような憐れむような複雑な気持ちになるが、それもまたいつしか薄れていく感情なのかもしれないと、静かに受け入れようとする僕がいるのだった―――
進藤と何度こういうことをしても、僕の気持ちは完全には慣れることがない。
男同士で抱き合うなんて、しかも快楽を感じるなんて、恥ずかしいとも浅ましいとも思う気持ちを拭えないまま、今日もこうして抱き合う。
その上、何度か体を重ねているうちに体は徐々に、しかし確実に馴染んでいくのをほのか〜に感じて、それがまたどうにもこうにも…である。
今夜も、進藤は僕の家に(僕の部屋ともいう…)お泊りだ。
何局か打った後に、お前もすっかり棋力が戻ったなと感心するように言われたことで僕は機嫌が良かった。
熱っぽい瞳の進藤にそろそろ寝ようかと手を引かれた時も、いつもみたいに羞恥から振り払うこともなく、すぐに腕を絡めた。
闇の中。
荒れる息を重ねているうちに、もう何も考えられなくなってゆく………
「ああぁ…やっぱお前、ココがいいんだ…。」
変わってねえ…と、進藤の長い指が僕の奥深くで回転する。
イヤだ、止めろと反射的に身を捩るが、それは何故だか進藤には「もっと、もっと」と聞こえるらしく、止めないどころか「もっともっと」いやらしいことばかりして来る。
その場所を探り当てられた時は、悔しさと気持ち良さが縄のように撚り合って僕の腰を悶えさせたのだった。
…そうだ………悔しいのだ…僕はっ!
僕の体に潜む秘密のスイッチを進藤によって探り当てられ、そしていいように昇らされる。
ずるい、とも思う。
だってそうじゃないか?
進藤は既に僕の体の隅々までを知り尽くしているというのに、肝心の僕自身は覚えていない。すっかり記憶を失くしている。
「体の反応って正直だよな…お前さ、キスのやり方も、俺のを握る時の手付きも(ここで本当にその手付きを真似して見せた…ゼスチャーはいらないっ!)…全然変わってないって、自分で気付いてないだろ?それがまたイイんだけどさぁ…。」
そんなことを言われて、今の僕が正気でいられる筈ないだろう。
少しは配慮ってものがないのかと訴えれば、そうだよな、お前のこと大事にする、過去には触れないって言ったもんな、ご免よ…なんて一度はシュンとなるものの、無我夢中で愛し合っているうちにそんな約束はどこへやら。
またすぐに、いやらしい動きと煽るような言葉が僕の上に容赦なく降って来る。
最初は恐る恐るだった進藤も次第に大胆になっていき、いつの間にやら僕が過去の自分と現在の自分の乖離にいたたまれなさを感じるその様子を見るのが…どうも………カイカン、らしい。
なんてヤツだ――――!
「き、君はこんなに底意地の悪いヤツだったんだなっ!?僕はどうしてそんな君を好きになったんだろう…あああぁ…。」
「えー?だって昔のお前はもっとしおらしかったも〜ん!俺にベタ惚れでさ〜、俺を殴るなんてとーんでもねえよ、今の凶暴さはカケラもなかったな。」
そんな意地悪なこと言いながら、進藤は僕の体のあちこちをその大きな手で癒すように撫でてゆく。
敏感な位置に来ると決まって往復するその手は、僕の眠る記憶を呼び覚まそうと執拗に攻めて来るのだ。
粒の形を露にする胸の頂を、進藤の唇で隙間なく覆われ、強く弱く、緩急をつけて吸われる。
先端をコリコリと舌先で転がされる。
上半身に気を取られている間に、進藤の指は濡れたものをまとい、僕の内部に滑り込んで来た。
周辺を丁寧に解され抵抗なく挿って来た指先は、今日も的確に僕のスイッチを押す。
その一点を攻められると、どうにも堪え切れずに仰け反ってしまう。腰が浮きそうになる。
だが進藤は逃がすまいと僕の腰を押さえつけ、堅くなった部分を口に含んだ。
あ…と、声があがる。
まさか中と外と、同時にこんなことをされるなんて。
ここまでされたのは初めてだった。
いくらでも、いやらしいことの先はあるのだと思い知らされる。
「ま、さか…こんなこと、まで…っあ…しんど、っ…。」
「後ろと前と?いっぺんにってこと?あーーーったり前じゃん…今までは遠慮してたの。やっぱいきなり昔と同じレベルじゃあお前が可愛そうかもって…。」
ここも慣らさないと怪我したりするし。間が空いたから、多分受け入れるのに時間がかかると思って…
まるで医学的な説明をするかの如く言う彼の口を、殴ってでも塞ぎたいと思う。
挿入まである交わりは何度か経験したが、それは不思議と一体感を感じさせて悪くなかった。…僅かな痛みを別にすれば。
でも、今のこのやり方は違う。
僕ばかりが一方的に愛されている。
進藤は口いっぱいに頬張った僕のものを自在に変化させ、中のヒダを確かめるように辿る指は、一本から二本へといつのまにか増えていた。
「死ぬほど気持ち良くさせてやるな…待ってろ。…そうだ!今までにないくらいの絶頂を迎えたら頭に刺激が加わるかも…記憶を取り戻すくらいに?」
忍び笑いが聞こえ、不謹慎なヤツだと本当に殴りたかった。
やがて彼の厚みのある唇は括れを取り囲むように吸い付き、強く刺激し、そこを押し下げるようにまた根元へと降りていく。
好きな人の唇と舌によって、限界まで盛り上がった男の欲望をしごかれるという気持ち良さは、内部を執拗に摺られる指のとろけそうな心地良さも加わって、僕にいくらでも恥ずかしい声を上げさせた。
「っは…ん…ぅ……や、や――――…あ、ん…っふ…っ――――。」
呻きとも喘ぎともとれる、苦しさゆえとも快楽ゆえともとれる、あられもない声だ…
こんな…こんな、あげるたびに恥ずかしさに命が縮むような声、自分のものだと知りたくなかったのに――――
閉じた瞼の裏。チカチカと光が弾け始める。とらえどころのない映像がチラつく。
何か。
何かが。
何かが形に。
何かが形になろうとする。
それは映像ではなく。
それは音だった。
ヒ
カ
ル
口にする前に、まず頭の中で呼んだ。
それが、僕の脳内で木霊する。どんどん大きくなる。
そしてとうとう、僕の咽喉奥から飛び出した。
「ヒ…。」
「…え…。」
「ヒカル…ッ………ヒカ、ルーッ………うあ…あ、あ、あ………ん、ん…ヒカ…ッ―――…
もう何も考えられなかった。
指先がわずかに届いた進藤の髪をかき混ぜ、腰を浅ましいほどに突き出して彼の咽喉奥の、柔らかく熱い部分に押し当てる。
熱い口内にスッポリと包まれた膨らみ切ったものは、限界に達し、僕は押し寄せる波をとらえてそれに乗った。乗るしかなかった。
先端から弾けるように噴出すリズムに合わせて、腰も跳ねる。幾度も。幾度も。
進藤は達した後も僕のものを解放せず、しばらくはしゃぶるように舌を動かしていた。
僕はというと――――混乱していた。
初めて名前を呼んだ。今の僕にしてみれば、初めてだ。
それも無意識だった。無意識だからこそ、混乱する。
記憶が戻った訳でもないのに、それが記憶を失くす前の僕がしていたことなのだと、僕にはわかったのだ。
僕は昔、進藤を名前で呼んでいた。こうして抱き合う時は、彼の名前を呼んでいた。
そしてそれが、僕という人間のほとばしるような愛情表現でもあったのだろう…
「アキラ…。」
ようやく満足したのか、口で愛撫し続けていた僕のものを解放し、進藤がずり上がって来た。
目と目が合うと、彼の瞳には喜びの色がありありと見て取れた。
「アキラ…。」
もう一度呼ばれて、僕の意識もはっきりとした。
ごく自然にアキラと呼ぶ進藤に、僕たちがこうして名前を呼び合っていたことを確信する。
「そんなに嬉しそうな顔――――するなっ!…恥ずかしい…。」
「えへへ…だっていいじゃんかぁ…俺もいつアキラって呼ぼうか…ずっと待ってたんだ…っつか、我慢してたんだぜ?このことも、さ…。ああ、でもっ!初めて名前を呼ばれた時みたい…ちょっとカンドー…。」
そんなに俺のエッチ、良かった?…とニヤけるから、それとこれとどう関係があるんだとソッポを向いて枕に顔を沈めた。
…そうやって布団に体を預けると、急にだるさが襲って来た。
前と後ろとを同時に気持ち良くさせられることが、こんなに疲れるものだとは。
「疲れた?息が上がってるじゃん?だってお前、集中力、スゲーんだもん。エッチの時もよく息を詰めたりしてるだろ?他のことなんか全部締め出して…。」
「そう、なのかな…。」
「ヨかった?今の…。」
「聞くなっていつも言ってるのに。」
「でもヨかったから、俺の名前、呼んでくれたんだろ?」
そこでまた、進藤が顔一面で笑った。
これがクセモノだ。絶対に口にはしないけど、僕の心を温かくする極上の笑顔なのだ。
「…聞かないのか?思い出したのかどうかって。」
僕は、気になったことを正直に訊ねてみた。
「記憶のこと?う〜ん…名前を呼ばれた時はもしかしたらって思わないでもなかったけど…今のお前はやっぱり思い出した様子でもないしな…それに…。」
サラリ…頭を撫でられる。微笑を崩さないままの顔が、降りて来る。
「昔のお前に呼ばれたって思うよりも、今、この瞬間さ…お前が俺の名前を呼ぶくらい昂ぶっちゃったって方が………クるよ…。」
「…ぁ…っ…。」
目と目を見交わし――――僕らは口付けた。
達した後の深い口付けは、なんて心地いいのだろう…
ヌルリ…と、舌を絡められただけで、脳天から足先までを甘い痺れが走り、再び下半身が脈打つ。
しばらく陶酔の只中で口付けていたが、やがて四肢を更に深く絡ませ、とうとう進藤が切羽詰った声で囁いた。
「も、限界…いい?挿って…いい?」
アキラ…と、付け足しのように言うのがまた憎らしいと思うが。
僕は手の平で彼の汗ばんだ額や頬をゆっくりと撫で、「だから聞くな」と苦笑いしながら言った。
後はただ、押し付けられる熱い肌にひたすら翻弄され始めたのだった。
そして今度こそは――――ヒカルと彼の名前を幾度も呼んでは、与えられる快感の大きさを伝えることを躊躇わなかった。
その夜、僕は夢を見た。
これは夢だと、自分が夢を見ているのだと理解していた。そんなことは記憶にある限り初めてだ。
夢の中で、僕は進藤と、そのお母さんの会話を盗み聞きしていたのだった。
「ねえ、ヒカル。ほら、あかりちゃんのお姉さんの赤ちゃんね、凄く可愛かったのよ。」
「へえ、あかりには似てないんだろ?だったら可愛いよな。」
「まあっ、失礼な子ね!…ところで。ヒカルはいつ孫の顔を見せてくれるのかしら?」
「はあぁ?そんなのまだまだ先だって。気が早過ぎるよ。」
「あら〜、昔から言ってるでしょ?お母さんはね、若いおばあちゃんになりたいのよ。そして孫の面倒をみたいの。だってヒカル、あっという間に社会人になっちゃって寂しいんだもの。ちゃんと叶えてよね、お母さんの望み。」
「はいはい〜、じゃあこのお茶、持ってくね。塔矢、部屋で待ってるから。」
…そうだ。
この会話を聞いた日から、僕は進藤の家に遊びに行けなくなったのだ。
そして僕は、進藤を愛することは罪ではないとわかっていながら、それでも罪悪感に似たものを心の片隅に抱えるようになっていった。
これは夢じゃない。
夢だったら良かったかもしれないが、現実は甘くない。
これは――――僕に戻って来た「記憶の一部」だ。
そう思っているうちに、場面は切り変わった。
しかし、僕の心の中には雨雲の塊を抱いたようにどんよりと重たいものが詰まっている。その感覚だけは、今見た場面と同じままだ。
僕らは二人きりで向かい合っていた。
「僕が…我慢すれば良かったんだよな。僕が君に言いさえしなければ…。」
「はぁ?何、それ…。」
「僕さえ君に告白しなければ…多分、君はあの幼なじみの彼女と結婚して、お母様の望みを叶えてあげられた。」
「勝手に言ってろ。」
…そうか。
ここは進藤の部屋で、僕が聞いてしまった会話のすぐ後なんだろう。
僕はとても悲壮な顔をしていたのに違いない。震える声に、不安定な心が滲んでいる。
「…僕はいっそシワだらけのおじいさんになって、もうお迎えが来るって――――そうなってから言えば良かった…。」
「何だって?」
「そうだ…そうなんだっ!あと何年か僕が我慢しさえすれば君の未来も変わったのに…君も僕もおじいさんになってから、本当は若い頃から君が…君だけが好きだったと告白すれば良かったんだ…。」
「アキラッ!!」
バシッ…
進藤の両手が、僕の頬を叩くように挟む。激しい音に、僕はギュッと目を閉じる。
「お前、いい加減にしろよなっ!マゾかよ、全く…そんなありもしない未来を想像して浸るのは止せ。気持ちワリイ。塔矢アキラらしくねえよっ!」
しっかりしろや、お前の目の前にいるのは誰だよ?…と。
進藤が挟み込んだ頭を小さく揺すると、僕の黒髪も揺れる。
たまらなくなって進藤に手を伸ばすと、頬に乗せられていた手を引き剥がし、そのまま抱き付いた。
…目を見るのが怖い。
目を見て、本当に進藤が怒って僕に呆れていたらどうしよう。そんなことになったら哀しくて息が止まりそうだと、とっさに思う。
だがその時、僕の体は進藤の腕によって一層強く抱き込まれ、耳には熱い息とともに泣き濡れた声が吹き込まれた。
…馬鹿、お前って本当に可愛いくらい、大馬鹿だ…
いくらお前がジジイになるまで黙ってようって頑張ったって、俺の方が我慢出来る訳、ないじゃん?
絶対、お前のこと襲ってるってば…お前が泣いてイヤだって喚いても、お前を俺のものにした…
ジジイになるまで俺が待てるか…馬鹿………
「ヒカルッ!」
「アキラ…。」
涙を堪えながら、僕らは強く、深く、抱き合ったのだった。
やがて、意識がユラユラと心許なくなっていく。
夢の中の僕の肉体から僕の意識がはがれ、上へと引っ張られる。
自分が風船になったみたいに浮き上がって行き、最後はポカリ…と目が覚めた。
「大丈夫?」
「僕は…。」
「どうした?」
心配そうに覗き込まれ、僕は目を見開いた。
進藤の潤んだ瞳に僕が映っているのを見つけ、何故だか安心する…
「夢を見ていた…。」
「そう…いい夢だろう?」
「…え…どうしてそう思う…。」
「だってお前、笑いながら俺の名前呼んでた…ヒカルって…。」
「そうか…そうだな。それはいい夢に決まってる。」
「良かったな。」
「うん…。」
そこで僕は愛しい人の体に腕を巻き付け、ありったけの想いを込めて呼んだ。
「最後の最後に大切なことに気付けて守っていくことが出来れば…それでいいんだな………ヒカル…。」
最愛の人の名前を口にした途端、込み上げるものがある。
随分長い間、僕はこの名前を封印していたのだなと自覚すると、溢れる感情は怒涛のようにうねり、夢の記憶では我慢していた筈の涙が目元に溢れた………
今の夢が記憶の断片であることは疑いようがなく、これは次第に記憶が戻って来る予兆なのかもしれない。
…いや、おそらく、僕の記憶は徐々に還って来るのだろう。
その時、今の僕は以前の僕をどう受け入れていけばいいのか、まだ戸惑いはある。以前の僕は進藤を愛するが故に、今以上に悩み苦しんでいたのだとわかったから。
もっと辛い出来事もあったのかもしれない。
進藤には言えずに、黙って一人で抱え込んでいたものもあったのかもしれない。
しかし、どんなに重たい十字架を背負うことになったとしても、進藤を愛することだけは止められない僕がいる。
記憶を失くしても再び愛してしまうほどに強い運命の絆で結ばれた彼と、手を取り合って生きて行くしかないのだ。
僕の涙を舐め取るように進藤の唇が目元を、頬を辿り、僕も彼の肌に指を食い込ませるほどにしがみ付いた。
それでも心の澱を全て洗い流してしまう涙は、止めようもない。
僕らはもつれ合いながら、互いの名前を喘ぎの中に混ぜながら――――いつまでも、鼓動を閉じ込めるように抱き合っていた………
記憶を失くす前の僕に、今の僕から言ってあげたい。
大丈夫…
きっと大丈夫だから…
明日から少しずつ戻って来るだろう僕の失われた記憶は、決して僕らを引き離すものではない。
それは僕らの未来に力を授けてくれるものだと信じ、愛する人と幸せになることだけを考えて生きて行こうと、僕は心に誓ったのだった。