― 初恋 ―









目を覚ました時から、違和感があった。
重たい。体が重たいのだ。一晩で体が膨れ上がったみたいな感じがして、体を起して布団の上に坐るのもやっとだった。
身を起こしたら頭痛も始まった。それほど酷くはなかったが、鈍い痛みが頭全体を圧迫している。

今度は部屋を見回した。
…見慣れない。見覚えが――無い。
畳に布団。入り口は…ふすまか。机に椅子に…机に乗っているのはパソコンか?
他には洋服ダンスとか…本棚とか…
…あっ!あれは…あの四角い小さなテーブルみたいなものは………



「アキラさん、まだ寝てるの?今朝はお父さんがお待ちよ。」

ビクッとした。不意にふすまの向こうから声がしたのだ。
僕は固まったまま、息を詰めて様子を伺う。

すると…相手はもう一度声を掛けて来た。

「アキラさん?アキラ………変ねえ。お返事がないから開けますよ。」

ふすまが開いてゆく。躊躇いを感じさせるように、ゆっくりゆっくりと。
僕は反射的に身を強張らせ、布団を握り締めた。

そこから顔を出したのは、40代くらいの上品そうな女の人だった。

「まあ…朝寝坊なんて珍しいわね。昨日、ちょっと様子が変だったから心配になって見に来たのよ、お母さん。」

でも顔色は悪くないみたいね…と、言いながら僕に近寄ったその人は、優しい笑みを向けた。



… お か あ さ ん ?



何か答えなくては…黙っていてはいけない気がする…
心は焦るが、口がうまく動かせないもどかしさが僕を苦しめた。

女の人は小首を傾げて、僕を覗き込んでいる。
さすがに不審に思い始めているのだろう…僕が何も喋らないことに。

「あの…あなたは、どなたですか?」
「…え?」
「ここはどこなんですか?僕はどうしてここにいるんだろう…。」

ようやく出たと思った言葉はその人を酷く驚かせたようだった。上品な顔が、やっぱり上品に歪んだ。



その人はその場にへたり込むと、それから僕の顔をマジマジと見詰めたり、ブツブツと何事かを呟いたりした。
僕は何も出来ずに、ぼーっと布団の上に坐ったままでいる。
だってそうだ。僕はどうやら生きてはいるみたいだが、これまでどうやって生きて来たのか――さっぱり思い出せないのだから!

想像するにここは多分僕の家で、僕の部屋で、そして目の前の女の人は家族の誰かだ。若くは見えるけど、さすがにお姉さんということはないだろうからお母さんなんだろう。
そこまで頭が回るというのに自分がどこの誰だか思い出せないなんて――全く不思議だった。

「仕方ないわ…慌ててもどうしようもないし。病院が開き次第連れて行きましょう。具合はどう?」
「少しだるくて頭が重い…そんな程度です。大したことはないと思います…。」
「そう?心配ねぇ…でも顔色も悪くないし、そのくらいだったら…病院が開く前にまずはすべきことをしましょう。」
「はい?…すべきことって…。」
「本当に覚えていないのね?自分がどこの誰か…。」
「はい。どうやらそういうことみたいです。」
「そう、そうなのね…確かに昨日から様子がどことなく変だとは思ったけど…何か進藤さんとあったのかしらって。」

その人は独り言のように呟いたのだが、僕の心はざわついた。
会話の中にキーワードが混ざっていた気がするが、それがどれなのかすぐにはわからない。
もどかしい。小さな苛立ちがわく。

これからしばらく…いや、ずっとこんなもどかしく混乱した毎日なのだろうかと思っただけで、ドッと憂鬱になった。
そして、その憂鬱が顔にも表れてしまったのだろう。

「アキラさん?ああぁ…ご免なさいね!あなたが一番大変な想いをしているというのに。心配しないで。体さえ問題なければ、こうしてちゃんと生きていけるんですから。気に病んではいけないわ。思い出すものも思い出せなくなってよ。」
「はい…。」

その人は優しく僕の肩を抱いてくれた。
ほっとする。記憶にはなくてもこの温もりには嘘偽りはないと、本能的に感じられる…

「さあ、着替えたら行きましょう。」

病院かなあと思いつつ、僕はその人の用意してくれた服を手にして…
はっと大事なことに気付いた。

「あの…僕は…。」
「はい?ああ、お着替えが終わるまで外にいてよ。」
「いえ、そのぉ…アキラ…というのが僕の名前ですか?」
「まあっ…っ…アキラさん…そうよね、あなた、自分の名前も………うっ…。」

その人は両手で口を覆うと、哀しそうに目を細めた。






◆◇◆






その女の人――ここからは母と呼ぼう――つまり母はしばらく迷っていたが、意を決したように口元を引き締めると、僕の手を引いた。

「体のことは心配だけれど、荒療治も必要かもしれないし…。」

荒療治?こんな…か弱そうな女性が、一体どんな荒療治を………僕に?
随分勇ましい面もあるんだなぁと、ちょっと不思議な感じがしつつも僕は母について行った。

へえぇ…古めかしくて広々とした家だなぁ…ここが僕の家なんだ。
こんな家に住んでいる僕が、どうして記憶を失くしてしまったのだろう?…って、家は関係ないか。

しかし、不思議でしょうがないことに変わりはない。どうして僕は何も覚えていないんだろう。

古い家の匂いが鼻腔をくすぐり、肺いっぱいに入って来ると、それを知っている筈の体が小さく震えたような気がした――



その部屋の前に来ると、母が振り向いた。

「アキラさん、ここからはお一人で入りなさい。怖いことはないわ。…いえ、ここにいる人はちょっと無愛想かもしれないけど―― 大 丈 夫 !」
「え…誰がいるんですか?僕はどうすれば…。」
「私はいつものように朝ごはんを用意して待っていますから。さあ、お入りなさい。何も心配しないで。思った通りに。」
「あ、あのぉ…。」

母はまごつく僕の背中を押し、耳元で囁いた。

「あなたのお父さんが待っていますからね。」

お父さん…そうか、自分の家なんだから今度は――――お父さんか!…僕の。

僕は「お父さん」という単語の意味を渾沌とした頭の中から引っ張り出し反芻しながら、部屋へと足を踏み入れた。
そこは僕の部屋と同じ畳間だったが、もっと広かった。

そしてその中央に――



「おはよう。アキラ、坐りなさい。遅かったな。」




ドドーンッ!!


ちなみにこれは、僕の脳内で大音響で響いた効果音だ。
大袈裟でも何でもない。そこに坐る人物は、この音の響きそのもの。本当にドシンと重みを感じさせる様子で部屋の真ん中に坐っていたのだから。

この人が…
この人が僕のお父さん………

着物を着ている。時代劇みたいだと思う。白髪でシワもいい感じの五十がらみの男性だ。
…って、待てよ。お父さんだって言われたじゃないか。ちょっと老けて見えるが、この人が僕の父なのだ。

僕は黙ったままボーッと突っ立っていた。
さっき母と出会った時もそうだったが、新しい場面――今の僕にとっての――になると、情報量の多さにどうしても動きがフリーズしてしまうらしかった。

「どうした?」
「…あっ、は…ぃ…。」
「何故坐らない?今朝は久しぶりにお前と打てると楽しみにしていたのに。具合でも悪いのか?」
「いえ、その…すみません…じゃない、おはようございます。」

打てる――今度はどの単語が引っ掛かったのか、すぐにわかった。
僕の目の前には父(と教えられた人)と、それから僕の部屋にも置いてあったのと同じものがあった。

そう…あれは碁盤。打つとは、囲碁を打つということ。白と黒の石をそれぞれが持ち、十九路の盤上で陣取りをしていくゲームだ。
…わかる。打ち方は忘れていない。黒が先番だ。

僕は、碁盤を挟んだ父の前に坐って正座をした。
…あ、ちゃんと覚えている!覚えてるぞ!!
正座をすると背筋が伸びて、自然と気持ちも引き締まる。
もっと混乱して無気力になってもいい筈なのに、どうしてだかこの位置は僕に安らぎをくれる気がした。

碁笥を見る。二つ、ある。これが碁笥だって名前もわかる。
その中にそれぞれ入っている白と黒の石を見ているうちに、僕の顔は自然に緩んだ…

「どうした?さっきまでは蒼い顔をして病人のようだったのに…。」
「あ、あのっ!もしかしたら…いえ、多分…打てば驚かせることになると思いますが、後で話を聞いてくれますか?」
「話?それだったら、今…。」
「いえ、まずは打ちたい。打たせてください。きっとその方が話も早い。」
「ははは…何だかいつものアキラとは別人がいるようだな。まさか、私が驚くほど打ち手として成長したと…そういう喜びだったらいくらでも驚かされたいがね。」

…へぇっ!
こんな威風堂々としている人でも、ちゃんと顔を崩して声を出して笑うんだ――息子の前では。

そんな風に思った後、まるでヒトゴトのようだがこれは自分の身に起こっていることなのだと気付き、僕は己の能天気さを笑いたくなったのだった。






◆◇◆






終局した時には、さすがにちょっと疲れてしまった。
父はすぐに僕の異変に気付いたようだが、最後まで打ち終えて一層確信を深めたらしい。
母と父が複雑な話をしている間に、僕はすっかりお腹がすいて夢中で朝ご飯をいただいた。
美味しい…やっぱり和食はいいなぁ…
毎朝こんなご飯が食べられるのなら、この家の息子も悪くないぞ…うん…

――碁?碁はどうだったかって?
全く問題なかった。僕的には。
置き碁ではなかったから大差はついたけれど、多分父は相当の打ち手だ。
打ち方も忘れてはいなかったし、何よりも打ってる最中は凄くワクワクした。碁ってこんなに楽しかったっけとか、記憶を失くす前の自分はどんな碁打ちだったのかなとか、色々と興味を覚えたほどだ。

僕が心から楽しそうに打っていたから、父も中断せずに最後まで付き合ってくれたのだろう。



しかし、それからの日々はなかなか大変だった。
病院通い。検査。母は時間があれば僕がどういう人間でどういう暮らしをしていて、と事細かに教えてくれた。家中を案内してくれたり、アルバムを見せてくれたり。
次第に僕は記憶そのものはその手の中になくとも、思い出と事実だけは手触りを感じられるような不思議な感覚に陥っていった。

そして記憶を失くして四日目の朝――僕は「彼」に出会うことになる。



「塔矢っ!記憶喪失だってっ!?」

飛び込んで来たのは若い男だった。僕と同い年か、それよりも若い…かもしれない。
前髪が明るい黄色に染まっていて、何だかひよこみたいだと思った。目もクリクリと大きくて良く動く。
青年と言っていい歳だろうけど………ちょっと可愛いかも。

彼と母は、しばらく僕を差し置いて話をしていた。
ここへ来る前から彼は僕の病状を聞いてはいたらしいが、熱心に母と話している彼はチラチラ僕に視線を送る。
そしてその視線が、記憶を失くしてから出会った他の人々とはどことなく違うように僕には思えた。

僕は、両親以外にも父のお弟子さん(父はやっぱり囲碁界で相当の地位にあり、引退するまでタイトル保持者だったそうだ!)たちや、棋院関係者や、市河さんという感じのいい女の人や、色々な人に会った。
両親は余計な面会は断っていたらしいが、親しい人たちには隠さないほうがかえっていいと判断したらしい。

頭を打ったのが僕の記憶喪失の原因と見られていた。後から頭に見つかったタンコブが痛み始め、それで気付いたのだ。
しかしCTも脳波も特に異常はなかったから、隠すよりも事実は事実として受け止め、前向きに対処していこうという方向に落ち着つつあった。

両親ともこの非常事態においてかなり鷹揚で、僕はこんな環境で育って来たのか、この両親となら記憶を失くしたままでも結構うまくやれるかもしれない…と、他人事のように思ったりした。



――そして今。
目の前に新たな人物…僕にとても関わりの深い人物が現れたのだった。

「お前、大丈夫?俺のことわかる?」
「申し訳ないが自己紹介してもらえないだろうか。」

その時彼が見せた落胆ぶりといったら!
彼は傍目にも気の毒なほど顔を歪め、苦いものでも飲み下すように一呼吸置いてから絞り出した。

「進藤だよ…進藤ヒカル――って、顔も覚えてないのに名前を覚えてる訳ねえよな…。」
「すまない…。」
「いやっ!や、や、ここはお前が謝る場面じゃねーって!こっちこそ変なこと言ってご免!」
「僕の方こそ覚えていなくて…君は一番のライバルだと聞いていたがプライベートでも親しかったのかな?」
「塔矢…冗談でも悪夢でもないんだな…お前、本当に…マジで………。」

こんな顔を何度もされたが、そのたびに僕は申し訳ない気持ちになった。
その必要はないと理屈ではわかっていても、周りに心配をかけていること自体がいたたまれなくなるのだ。

「それより体は大丈夫か?頭は?もうそれだけが心配で心配でさ…。」
「それだけ?君は気にならないの?僕が以前どおりに碁が打てるかどうか…。」
「えっ…どうして?そんなん二の次じゃんか。命あってのもんだろう――碁なんて!」

驚いた。誰もが最初は僕の体と記憶のことを心配し、それから次には必ず「碁は…。」と訊ねる。
実際、僕がプロ棋士である以上は、仕事が出来る状態かどうかという問題に繋がるのだから大切なことに違いない。

僕は、進藤ヒカルという青年を改めて見た。
どこにでもいそうな若者だ。僕は自分の姿を鏡で見て少なからずともその髪型に驚いたものだが、彼はひよこ頭とはいえ、ごくごく今風の容姿であり、身なりでもある。

「な、何?俺のこと、思い出そうとしてんの?」
「あ?ああ、ご免…ジロジロ見てしまって不躾だったかな。初対面なのに。」
「!!…バカッ!違うだろっ!初対面なんかじゃ…っ…く、ぅ…。」

突然、彼が大声を出した。拳を握り締め、それを壁に打ち付ける。僕は反射的に身をすくめたが、怖くなった訳ではない。
へえぇ…この青年にはこんな激しいところもあるんだと、僕は彼にとても興味をそそられた。

「ワリイ…。」
「いや、君が悪い訳じゃない。そもそも今僕が…僕らが直面している事態が異常なんだ。すれ違いや摩擦が起こるのも仕方ない。」
「塔矢…お前って記憶を失ってもお前なんだな。塔矢は塔矢だ。その堅苦しい言葉遣いってばよぉ…。」

変わんねーんだな…と、そこで彼は初めて笑った。
見る者の目を引く。それは温かい、お日様みたいな笑顔だった。



とりあえず彼を部屋に通し、母が煎れてくれたお茶をすすめる。他にすることもないし、話をするのも気詰まりだし。
こんな時僕は、まずは「打ちませんか?」と提案することにしていた。
単純に打つのが楽しいというのもある。覚えたてのゲームに熱中する子供のようなものなんだろう。
医者からは脳を酷使しない方がいいと言われ棋士としては休みの届けを出したが、本音を言えば打ちたかった。
一番打ちたい父は忙しい。僕は誰とでもいいから、打って打って打ちまくりたかった。

「…え?打つの?お前、そんなことして頭…平気なのか。」

まだ心配そうにしている彼に向かって、僕は大きく頷く。
はにかんだように笑った後、いそいそと碁盤を用意し始めた進藤のことを本当に優しい男なんだなと、僕はただ素直に好感を持って見ていた。

しかし――――







「お前…何だっ!この手はっ!」
「何だと!?いい手じゃないか、四方八方に睨みをきかせてこれ以上の一手はない!」
「堂々と言いくさりやがって!こんなん俺が打ったらおめえ、頭をブッ叩きやがったぜ!しっかりしろやっ!俺がブッ叩いてやろうか〜。」

「ブッたた…って…僕は
記 憶 喪 失 なんだぞっ!」
「それが言い訳かよ?だったらさっさと記憶を取り戻せっ!」
「何だとおおぉ…君には労りってもんがないのかっ!?」

前 言 撤 回 !

彼は人の良さそうな顔の下に、とんでもなくアグレッシブなプロ棋士
としての顔を隠し持っていた。
お願いしますと頭を下げ、次に顔を上げた瞬間――彼は別人になった。
ひよこ頭のくせにこんなに強いなんて、詐欺みたいだ。
悔しいことに、父以外でここまで僕を奮起させた者はいなかったし、彼が父とは違う魅力を持った打ち手だということも嫌でも感じさせられたのだ。

彼は僕を睨む。
僕も、睨み返す。

間違いなく僕らは、僕の記憶が失われる以前からこうして碁盤を挟んで向かい合っていたのだと確信出来た。
この「空気」は、決して一朝一夕に生まれるものではないだろう――

「塔矢アキラは…お前はな、労りなんか欲しがるヤツじゃねーっ!それくらいだったら一局でも打とうって俺に食い下がるヤツだっ!」
「進藤…。」

僕は思わず彼の名前を呟いた。
誰に会ってもすぐには名前を覚えられなかったが、進藤ヒカルは違った。誰とも、全然、違ったのだ。

僕ははっとなった。
確かに僕の脳に異常が起きている以上、その点においては僕は細心の用心をしなければならないだろう。
今まで出会った人は皆、その点を気遣ってくれたのだということもわかった。誰も、僕に全力で向かうことで疲れさせたり、或いは僕の棋力を目の当たりにしてガッカリした顔を見せたりしないようにと、思い遣ってくれたのだ。

それを有り難いと思うと同時に、目の前にいる彼の気持ちも痛いほどに伝わって来る。この、嘘のない一局が伝えてくれる。
彼は彼なりのやり方で僕と真剣に向き合おうとしているのだと――

「僕はどんな棋士だった?教えてくれるか、進藤…。」
「塔矢…。」

まだ頬を紅潮させている彼を、僕も真っ直ぐに見た。

「っしゃ!だったら打つぞ、もう一局。お前と俺が打ったヤツもいっぱい並べてやるな。…あ、でも疲れたらちゃんと言えよ。無理すんな。」
「ああ!」

そしてその日、僕の部屋にはいつまでも石の音が響いていた。



それから進藤は毎日やって来た。少しでも空き時間があれば、日に二度訪ねて来ることもあった。
いくらライバルでも友達でも、そこまですることないのに。
それとも彼は、元からこんなに親切でマメな人物だったのだろうか?

しかし、僕とて彼のような碁打ちと毎日打てることは喜び以外の何物でもない。
最初は多少恐縮していた僕も、彼と打ち合う内に夢中になって、お願いだ、もう一局、まだ帰らないでと、せがむようになった。

そしてニ週間目。僕が記憶を失くしてから十八日目。
最初の転機は訪れた。






◆◇◆






僕のことを心配して外出も控えていた両親だったが、その夜はどうしても断れない会食とかで出掛けることになった。
両親がいつものように打ちに来た進藤に僕のことを頼んで家を出た後、事件は起こった。

きっかけは、僕が何気なく始めた会話だった。

「そうだ、進藤。僕、聞こうと思ってたんだけど、記憶をなく失くす前、最後に僕が会ったのは君なんだよね?母がそう言ってた。でも、僕が頭を打ったのは君と別れてからだとも…。」
「あ、ああ…あの日、お前は地方に行く俺とギリギリまで打ってて…駅まで一緒だったけどそこまではお前、普通だった。」
「うん。どうも帰宅途中に何らかの原因で頭を打ったらしいんだよな。まあ、外傷は大したことないからいいんだけど…。」
「…けど?」
「実は携帯電話がないんだ。母によると常に持ち歩いていたそうだ。君、何か知らないか?」
「ふうん…そっか、携帯のこと、一応気にしてたんだ。」
「あー、やっぱり知っているのか?」
「もしさ、お前が落とした携帯を俺が持ってるって言ったら…どうする?」
「え?君が持っているのか…じゃあ、どうして返さない?」
「もしもって言ったろ?」
「進藤!回りくどい言い方は止めろ。」
「…ほら、お前の番だぜ。」

進藤が顎をしゃくって見せる。胡坐をかき、リラックスして打っていた彼は、盤面に視線を落としたままだ。

「でも…このままじゃ先を打てない…。」
「そっか。悪かったな。持っねーってば、お前の携帯なんて。ちょっとからかってみたくなっただけ。」
「からかって…って、君、悪質だぞ!僕は真面目に…。」
「だ〜から〜、悪かったって言ってるだろ。お前がさ、碁のこと以外で俺に何か聞くの、初めてかもって思ったら…やっと自分の過去にも目を向けるゆとりが出て来たのかな〜って…。」
「…あ…。」

言われればそうかもしれないと、思った。
気持ちも体も現状に馴染んで来た僕は、この頃になってようやく失くした記憶とその原因について考え始めていたのだろう。

僕は石をゆっくりと掴み、それから言った。

「そうだな…知りたくなって来た、のかも…でも今はまだ、こうしているだけでも十分…。」

ピシ…と、殊更響かせて石を置き、こうして君と打ってさえいれば状態はいい方に向かう気がするよ、楽天的かな?――そう笑った。
僕は当然彼も笑い返してくれると思っていた。それを期待して、彼を見た。

――ところが、そうはならななかった。
進藤は笑うどころか黙っていた。
やがて次の手を置いた後、おもむろに顔を上げた。
目と目が合う。薄茶色の瞳が、何かを訴え掛けるかのように強い光を放っていた。

「お前さ、俺たちはただずーーーっと打ってただけだと思ってる?」
「…え?」
「お前が記憶を失くす前のことだよ…会えば打つ、それだけだったと…ほんとーーーーーっに思ってる?」
「だって…覚えてな…。」

「 思 っ て る ? 」

ズイ…と、進藤の顔がアップになった。急なことにドギマギする。

「え…えっと、そうじゃないのか?」
「…ふうぅ…――っそか…いや、そうだよな。覚えてないのにお前の想像を聞いてもそんなん意味、全然ねえや…。」
「違うのか?どっちだっ!ハッキリしろっ!進藤!!」
「お前〜、逆切れしてんじゃねーよっ!」

僕はムッとして彼を睨み付けた。彼も負けじと目元に力を込めて来る。

「確かにお前は病気みたいなもんで苦しいのは誰よりもお前自身だってわかってるさ。だから俺も我慢に我慢をして…必死で…。」
「必死…で?何だ…一体、何なんだ?」

指先が冷たくなるような気がした。こういう感覚を、血の気が引くというのだろうか。

聞きたい。聞いてスッキリしたい。



――その一方で。



聞くことが怖い。聞いてしまったら、もう引き返せない。折角、何もかもをリセット出来たのに…



…え?



…リセット…出来た、のに…



…って………



僕は、何かをリセットしたかった、のか?



全部忘れてしまって、そして新しくやり直したいことでも…そんな辛いことでもあったんだろか?
まさか――とは思うが、そのせいで頭を打つような出来事があったのだろうか?



わからない。
何も…何もわからない。

考えても頭が痛くなるだけだし、無理をすれば心にも負担がかかるばかりだ。だから考えてもしょうがないと自分で自分を納得させていた。

でも…それももしかしたら、何か重大なことから逃げていただけなのだとしたら…



――お前の碁はお前のまんまだ。真っ直ぐに向かって来る。さあ、どう戦う?最良の一手を見せてくれと、堂々と見詰めて来る…
俺の知っている塔矢アキラはそういう碁打ちだ――

この前、進藤が僕に言ってくれた言葉が蘇える。痛いくらい鮮やかに、蘇る。今、僕の胸に。
僕の打つ碁に、僕の失くしたもう一人の自分――本当の僕が宿っているのだとしたら。
僕は進藤が認めてくれた僕の碁のように、逃げずに立ち向かっていかなくてはならないのではないか。
…そうすべきではないか。

心の底から湧き上がって来る、熱くて、確かな重みを持った想いが僕を突き動かした。

「言え。教えてくれ。進藤。僕は逃げない。何を知っても。」

進藤はとても寂しそうに微笑み、それから立ち上がった。
僕へと近付く…一歩…また一歩………
縮まった距離の分、進藤の息遣いまで生々しく聞こえて来そうだ。
碁盤を挟んでいるのとは全然違う。同じ距離でも、それは全然違う意味を持つ気がした。

「お前と俺はね…こうやってプライベートで打つだけじゃなくって…。」
「――なくって?」

ゴクリ…
咽喉が鳴った。
僕はとっさに顔を伏せる。

すると進藤が立ち止まった。
ピタリと、足先が動かなくなった。

僕はゆっくりと顔を上に…立ちつくす進藤の方へと向けた。






「わ―――っ!!」

…は?

「駄目だ駄目だ駄目だぁ…やっぱ出来ねえよ、俺、こんなん駄目だああぁ…。」

叫び出したかと思ったら、今度はその場で足踏みをする。子供が駄々をこねているみたいだ。…というか、モジモジしているのか?
それだけではない。頭を掻き毟り、身をくねらせて悶えている。
――どうしたんだ、進藤!?…しっかりしろ!

「だ、駄目って…一体、君は何を知ってるんだ…言いたいことがあったんじゃないのか?」
「いや、だって…これって俺にとっては過去をなぞることでもお前にとっては――初めてだし…。」
「仕方ないだろうっ!つべこべ言ってないで初めてでも何でもいいからさっさと言えっ!僕は逃げも隠れもしない。怖くなんかない。」

そこまで言ってしまったら、妙にスッキリした。こうなったら何でも来いっ!!――だ。

「ううう…さっきまでは、何も覚えてないお前にイライラして何もかもブチまけたかったのに…俺って意外とチキンだったんだ…。」
「進藤?」
「いざとなったら…こんなにどうしていいかわかんねーもんなんだな…だってお前、やっぱり記憶を失くす前とは同じ人間なのに――同じじゃねーんだもん…。」

進藤の体がスーッと離れた。急激にその場の温度が下がる。空気が変わる。

「やっぱ、止める…。」
「…はい?」
「お前の過去を俺がバラすのは、止める。それはしちゃいけねえことだと思う。」
「どうしてそこまで頑固なんだっ!」
「いいよ、怒りたきゃ怒れば。もう決めたんだ。俺はお前の過去を話さない。その代わり…。」
「………?」
「これからも打とうぜ。お前と打ちたい。今までみたいにさ。いいだろう。それで。」
「それは…。」



――元々、僕は進藤と打つのが誰と打つよりも楽しいと感じていた。
記憶は失くしても、碁は打てる。
父も母も元気だ。ご飯も旨い。ひとまずは、僕も健康だ。
温かい想いがフワフワァ…と、煙が立ち昇るみたいに膨らんだ。

…あ、れ?…こういう気持ちって………そうだ!これをまさに「幸せ」と呼ぶんじゃないだろうか?

そう感じた途端、目の前が開けた気がした。
記憶を失くした自分を憐れむ必要も、元通りにならなければと焦る必要も、実はないんじゃないだろうかと、アッサリ思えたのだ。

物事はそんなに単純ではなく、これからも何か大小取り混ぜて問題が起こるかもしれない。…いや、起こるだろう。
だけど今、こうして生きていること自体を幸せだと感じられるのなら、そのことを大切にしようじゃないか。

「そうだな。今の僕には碁と、君がいれば本当に満足だから――完璧だよ。」
「塔矢…。」

お前、それって最大級のコロシ文句だぜ…と進藤が頭を抱えたが、その時の僕にとってそれも彼流の冗談の一つなのかな?…くらいにしか思えず流してしまった。
いつしかその深い意味を知ることになろうとは、想像だにせず――――






◆◇◆






月日は静かに流れた。
僕は時折り頭が痛んだり、フラッシュバックのような症状に襲われることはあるものの、完全に記憶を取り戻すにまでは至らず。
しかし幸いなことに体の不調もなく、僕の心はたゆたいながらもあるべき場所へと向かっていたようだ。

復帰した棋院でも、僕はすぐに馴染んだ。
進藤の友達の和谷君など、お前、記憶失くしてからの方がノリいいから好きだぜ〜などと言っては、僕に色々なことを教えてくれた。主に進藤のことを。
進藤には恋人がいるのだが、どんなに紹介しろと詰め寄ってみても無視されるとか。
何度誘っても合コンには参加しないくらい、彼はその人に夢中でその人を大切に思っているとか。

それから僕は、進藤本人に目を転じてみた。
今の彼は、プライベートの時間はほとんど僕に費やしてくれている。それは誰の目にも明らかだった。

「君ってさ、随分僕には良くしてくれるんだなぁ…。ねえ、恋人が寂しがっているんじゃないか?」

そう尋ねた時の彼は、思い出しても可笑しい。
面食らった顔がすぐに慌てた様子になり、赤くなったり青くなったり…とはこういうことを言うんだろうと見本みたいだった。

お前の棋力が元通りになるようにさ、とぶっきらぼうに言う。
それに恋人なんている訳ねえ、和谷の冗談だぜ、お前、かつがれたんだって…と、その存在に関しては下手くそな嘘で誤魔化された。



そうか…
そうなんだな…

君の秘密の恋人は…おそらく…いや、きっと――――

進藤と積み重ねる日々は、静かに「真実のカケラ」を僕の心に降り積もらせていった。






◆◇◆






僕が記憶喪失になってから三ヶ月が経った頃だ。
それまで母は僕を心配して父について海外に行くのを躊躇していたが、そろそろ大丈夫だろうと久しぶりに中国へと旅立っていった。
そして、僕の家には進藤が泊り込むことになっていた。

彼がうちに泊まるのは、実は初めてだった。
…いや、正確には記憶を失くす前には何度か泊まったこともあるらしかったが、それも矢張り両親がいない時だったそうだ。
今は母がずっと家にいるせいか、進藤はどんなに遅くなっても自分でバイクを運転して帰って行く。



僕は考えた。
僕は、そのこと以外にもたくさん進藤のことを考えていた。



ふとした拍子に、彼が酷く物言いたげに僕を見ていることに気付く。
それなのに決して多くは語らない。僕が質問すれば答えてくれるが、過去の僕について積極的に触れようとしない。
この三ヶ月の間、彼の態度は見事なくらいに一貫していた。

どうしてなんだろう…
どうして進藤はこんなにも僕の近くにいてくれるのに、過去を振り返らないのだろう…

もしかしたら進藤と僕とは、他の人とは違う絆を持っているのではないか。
そしてそれを、記憶を失くした僕に告げることを自ら禁じているのではないか。

僕の中で膨れ上がったあらゆる気持ちをぶつけるには、今夜しかない。
僕は決意していた――――



「ねえ、進藤。君、山村さんと付き合うの?」
「っは?…何?急に…。」

山村さんとは、進藤が最近同じテレビ番組に出演している女流棋士で、大変可愛らしい人だ。実力も人気もある。

ピシ。

「噂になってるよ、似合いの二人だって。」
「止せや〜い。今の俺はお前のお守りで手〜イッパイだっつの。」

ピシ。

「ふうん…そうか。じゃあ本当に彼女のことは何とも思ってないんだな。」
「あったり前じゃん…って、あ〜、そこか…キビシイなぁ…。」

ピシ。

「…と言いながら、君だってさすがだな。思ったところに打ち込んで来る。」
「やぁ、お前もスゲエよ。よく三ヶ月でここまで辿り着いたな。昔よりも好調なくらいじゃねえ?」

ピシ。

「君のお陰だよ。いくら父がいても、ここまで短期間で棋力を戻せたかわからない、君がいてくれなかったら…。」
「お〜い、こっぱずかしいこと言うなよ。俺もいい勉強になったし、さ。最初の頃なんて指導碁の練習になったぜー。」
「言うなあ…。」

ピシ。

「でも良かった…君が山村さんとどうにかなったら、僕もどうにかなりそうだった…。」
「ちょ、ちょっと待てよ、塔矢…お前、今日はなんか………変だぜ?」

ピシ。

「違うよ、今までが変だったんだ。神様のイタズラで大回りさせられたけど、ちゃんと戻って来た気がする…碁のことだけじゃなくて。」
「なん、か…咽喉が渇いたな〜、俺、さっき冷蔵庫に炭酸入れといたからさ、取って来るわ…。」
「進藤っ!待てっ!これからが肝心な部分だっ!」

立ち上がった進藤を追って、僕も立ち上がる。手を伸ばす。
逃げるように背を向けた進藤のむき出しの肘に、僕の指先が微かに触れた。

その瞬間――電気が駆け抜け、体が弾かれた。



「ななな何だよーっ、塔矢っ!?!?」

はっと我に返って見ると、声はすれども進藤の姿は目前から消えていた。
…と思ったら。






「――腰を抜かすところかっ、そこはっ!」

信じられない…
進藤は僕に触れられただけで腰砕けを起し、その場に尻餅をついたのだ!

「だって、お前が急に…どうしちゃったの?おかしいよ…。」
「そうじゃないだろう。おかしいのは今日の僕ではなくて、覚えていない僕だ。君との本当の関係をすぐには認識出来なかった、僕だ。」
「塔矢…何か…思い出したの?」
「そうじゃない。思い出したんじゃなくて…わかったんだ…。」

思い出したんじゃない…のところで少しだけ進藤の眉間が寄り、彼の落胆が垣間見えた。
それでも僕は続きを言いたくて。どうしても聞いて欲しくて。
自分を奮い立たせるべく彼を睨ん………じゃなくて、熱く見詰めた。



――が。しかし。
どうして物事は思うように運ばないのだろう…

「あ、ああぁ…駄目だ…こんな恥ずかしいこと…一体、以前はどっちが先に言ったんだ…想像も出来ない…。」

思いがけないことだが、僕までその場に膝をついて項垂れてしまった。

「今ならわかる…わかる気がする…三ヶ月前、君が言いたくて言えなかったことも…こんな…こんな言いたい放題喧嘩し放題の僕らが…そんな…死ぬほど恥ずかしい…。」
「話が見えねえよ、塔矢…俺、こんな腰抜かしたまんまでどうすりゃいいんだ…。」

見ると、進藤は今にも泣きそうな顔をしていた。目がキラキラと、困惑と期待に揺れている。
彼も想定外の成り行きにパニックしているのだろう。
それを見ていたら僕も覚悟が決まった。彼ににじり寄り、深呼吸を一つ、する。

「どうやら僕は、君を好きになってしまった…。」

「…は?き、聞こえねぇ…。」

「だから…僕はまた、君のことを好きになっちゃったみたいだって…。」

「う…そ…。」

「嘘じゃないっ!君が好きなんだっ!!悪いかっ!?」



…言えた
やっと言えた………

記憶を失くす前は一体どちらから告白したのかはわからないが、少なくとも今の僕にとって初めての告白には違いない。…多少(?)甘さには欠けていたが。

やっと腰を浮かせた進藤が、目一杯伸ばしたその腕で僕を抱いた。
苦しいくらい強く、強く抱き締められ、本当に息が詰まりそうになる。必死で彼の背中にしがみ付く。
重なる胸を通して、互いの早まる鼓動を感じる…

「そん、な…お前、思い出した訳でもないのに…俺のこと…マジかよぉ…。」
「進藤?あの…君、喜んでいるのか?――それとも困ってるの…。」
「バカやろうっ!嬉しいに決まってるじゃんかっ!だ、って…絶対に有り得ないって思ってた…このまんま…お前が思い出さないまま、誰か他の女を好きになってくの…俺は傍で見ていなくちゃいけないんだって………っく…。」
「進藤…もういいだろう…ちゃんと言ってくれ………言って、いいんだ。」

彼は泣いていた。
僕の肩口をゆっくりと湿らせていくものが彼の涙でなくて何だろう。
どれだけ彼が苦しみ、身を引き裂かれる想いで僕の隣にいてくれたのかと思う時、彼の涙は僕にとってもかけがえのないものに思えてならなかった。



「あのさ…お前…記憶を失くす前のこと、知りたい?」

俺たちの間に何があったか。
どんな風にして付き合うようになったか。

男同士でライバルなんだから簡単な話じゃなかったって…お前にだって想像はつくだろ?

それでも俺たちが、どんだけ深く愛し合っていたか――



進藤のしゃくり上げるような声が、凄く愛しい。
愛しくて愛しくて愛し過ぎて、何かがせり上がって来ては溢れそうになる。

「やっと言ってくれたな…僕たちが付き合ってたって。君、よく今まで言わないでいられたなぁ…凄い、凄いよ………僕だったら絶対に我慢出来なかったよ?」

小さく笑うと、進藤も泣き笑いで応えてくれた。抱き締め合った体が共鳴するように震える。

「お前だって記憶が戻った訳でもねえのに、よく俺らのこと…俺の気持ち、わかったよな?」
「この三ヶ月、どれだけ一緒にいたと…打って来たと思ってるんだ?」
「ははは…確かに!これで俺に他に恋人がいるなんて有り得ねえもんなぁ…。」
「携帯もやっぱり君が?あの日、僕に何があったのか本当に知らないの?」
「んー…お前、何もかも知りたい?今すぐ?」

腕を回したまま、顔を見合わせる。
涙でグチャグチャになった顔は吹き出したくなるほどみっともなくて、でも、そのみっともなさの分だけ僕らは幸せだった。満たされていた。

「知りたくないと言えば嘘になるけど…今はまだ、いいかな。だって初めてなんだ、こんな気持ち。君には初めてじゃなくても――初めてじゃない僕を、君が知っていても。…今の僕にとってはこれが初めての恋で。もうそれだけでイッパイイッパイ…だから――」

――もう少し…こんな抑えきれない切なさを、大事に大事に抱き締めていたい。



言葉にはならなかった僕の想いまで丸ごと受け止めた進藤が、優しく、甘く、僕の髪を、頬を、その大きな手で撫でてゆく…

「そっか…お前にとっては初恋なんだな。…や、俺もだけどさ。でも、やり直そうと思ったらやり直せたのに…お前の二度目の初恋も――――俺が相手でいいの?」
「うん、君がいい。何度記憶を失っても…君が傍にいてくれたら…やっぱり君を好きになると思う…信じられる…。」

言い終わらないうちに進藤の顔が近付き、そして――僕らはそっと唇を重ねた。

触れ合っている唇をほんの少し動かすだけでも背筋を甘い痺れが揺らし、進藤の濡れた舌先が僕をこじ開けて入って来た時は頭が真っ白になる。
ゆっくりと味わうように絡まり合う舌が、吸われる全てが、気持ち良くてたまらない…
体がどこまでも浮き上がってしまいそうだ…

僕らは、時を忘れて夢中で貪り合った。



唇を離した後、進藤はブンッ!と、思いっきり上を向いて僕から顔をそらした。
それから訝しがる僕に向かい、照れ臭そうに震える声で言った。

「う、あぁ…っ…俺、初めてじゃねえのに…なんか初めての時よりもめっちゃ緊張したかもー…う――…。」
「初めての時って………そうか、したことあったんだな…。」

「キス」という単語は、恥ずかしくて口に出来そうもない。
失くした記憶に想いを馳せる僕の頬を両手で包み、進藤はイタズラっぽく笑った。

「教えないもん!本当の初めては俺だけの想い出にする。お前は、今のキスが初めてってことで。あー、俺、得したかも…キスも何もかも、初めてが二回だもんな!」
「…え、何もかもって…これ以上もあったのか…。」
「はぁ〜?塔矢、お前〜、俺ら健全な二十歳の男だぜ?愛し合ってるならキスどころか――
「わわわ――――っ!!いいからっ、も、いいよっ、まだ、いいっ!!」
「塔矢〜、お前、普段は元に戻ったけど…こういうの、苦手?なんか新鮮〜、だって昔のお前はもっとスゲエ………









バキッーーー!



「だから言うなっ!!!」
「ってぇ…こんの〜、凶暴男めっ!いいぜ、覚えとけ。そのうち嫌でも体が思い出すようにし向けてやるからなっ!」
「体が、って…。」
「そうだな〜、お前、キスだけじゃなくってあ〜んなこともこ〜〜〜んなことも全部体は知ってるのにさ、心は初めてだって思っちゃうんだろ?」
「――っ!」
「それってどーなっちゃうんだろ?…なあ?心と体の反応がチグハグだったりしたら…。」

既に容量一杯どころか超えてしまっている僕は返答に詰まる。
こんな会話、慣れない。望んだとはいえ、こんな関係もまだまだ慣れなくてどうしようもない。

いたたまれずに俯いた僕の顎を摘むと、進藤が上向かせた。
髪がサラリ…と揺れて、進藤がそれを指先で何度も嬉しそうにすく。彼の視線に包まれているだけで、僕の頬も、体も、馬鹿みたいに火照り出す。

ああぁ…どうしよう…どうしたら………

「嘘だよ…塔矢…意地悪言ってご免って。見て。ちゃんと、もっと、俺を見て…。」
「うん…。」
「お前、耳まで真っ赤っ赤………んー、そんなん見ると…何だか俺も初めてに戻った気分だぁ…。」
「またそんな恥ずかしいことを…。」

僕らは再び見詰め合い、微笑み合い、それから戸惑いをかなぐり捨てて新しい世界へ続く扉を二人で開けた。






塔矢…好き、大好き…愛してる…
ずっとずっと言いたかった…お前を愛してるって…

僕も、好きだよ…
きっとこれから、たくさん君を愛するようになる…



泣きながら、ぎこちないキスを繰り返す…



唇が離れる僅かな合間にも、切なく互いを呼び合う…






僕は静かに思った。

知りたいことも知らなければならないこともまだ山積みだけれど、どんなに辛かった過去も初めての経験も、恐れずに越えていける…

進藤…君と一緒なら――――












NOVEL