― ふたりで見る世界 ―




久しぶりに、塔矢んちに泊まった。

これまでも泊まったことは何度だってあるけど、勿論、碁を打つ為にだ。
十六、十七、そして十八歳になって。
そろそろ俺の気持ちもバレバレかもしんないなって思い始めてからは、そんな機会もなかった。

だから塔矢から、今日、打ちに来ないか、泊まっていかないかと言われた時は、心臓がバクバク走り出したのを必死で押さえ込み、「おう」と答えるだけで精一杯だったんだ。



…やっぱり、何にもなかったか。

いつもみたいにメシや風呂を挟んで、ずーっと打っていただけだ。
まあ、それでも十分楽しいのは楽しいんだけど、俺的には進展が欲しいような。
それも恐いような。

「ぐっすりおやすみ。」と笑顔で客間に通され、黒髪の揺れる塔矢の背中を恨めしげに見送った後は、自分のヘタレさにガックリと膝をついてしまったんだった。






翌朝、塔矢が客間に俺を起こしに来たのは、いつもよりも早かった。
外は明るかったけど、塔矢んちの朝にしたって早過ぎないかと思いつつ、俺はゴソゴソと起き出す。

「あれ〜、今日は仕事?出るの、早かった?」
「そうじゃない。こっちへ」

寝ぼけ眼の俺を、塔矢が促す。
そして縁側から庭へと導かれた。

「古代蓮というんだ。詳しい種類は忘れたけど。今中国に行ってる母が丹精していて、やっとひとつだけ咲いた。他に花芽は見あたらないから、今年はこれ限りだと思う」
「へえ、綺麗だなぁ…」
「匂いもいいだろう?」
「ホントだ!ほんのり薫る…」

それは、白い花びらが幾重にも重なった、蓮の花だった。
真っ直ぐに上へと伸びた茎の先に、まるでお姫様みたいに可憐に座っている。
緑のはっぱは青々として、その花を守るかのように取り囲んでいた。

大きいけれど、でも、どことなく儚い感じのする花だと思っていたら―――

「これはね、早朝から朝の九時くらいまでしか咲かない。その時間帯にしか見られない。それも、三日くらいで終わりだ。偶然、昨日咲いたのを見つけてね。明日はもう、咲かないかもしれない」
「え?じゃあそれで」
「うん。それで」

にっこりと。
俺にではなく、その花に向かって塔矢は柔らかな微笑みを向けた。



何だぁ…
ちょびっとでも期待した俺が馬鹿だった、ってことか。

塔矢は俺に対して特別な気持ちがある訳じゃなくて、ただ、珍しい古代蓮とやらを見せたかった。
それだけ、だったんだ。

肩すかしを食らったような気持ちもあるけど、澄んだ朝の空気の中で、塔矢と二人並んで貴重な花を眺めるのも悪くないと、素直に思ったりもした。



「世の中には、月下美人やこの蓮のように、決まった時間にしか咲かない、儚い命があるんだね」
「うん」
「そういうものを一緒に見られるって、生きているうちにどれだけあるのかわからないけど」
「…?」
「これからも君と見たいなって、そう思ったらつい…誘ってしまっていた」
「あ…」

俺がボーッと花を塔矢の横顔に見とれている間に、実は、凄く重大な話が始まっていた―――らしい。

「これからも…って?」

ゴクン、と。
大きく咽喉が鳴った気がして、俺は思わず顎を引いた。

「君には写真を見せるだけでも良かったし、折角だから、ご近所に知らせて見に来てもらっても良かった。…でも」

塔矢は躊躇っているようだった。
口ごもり、目をパチパチさせている。

いや。
本当に、思いっきり、躊躇っていたんだろう。

言ってしまったら引き返せない。なかったことには出来ない。
そういう種類の告白だということは、嫌でも雰囲気で伝わるじゃんか!



とうとう、俺は塔矢の手を握った。
驚いたように顔を上げた塔矢の視線と、俺の視線がぶつかる。

大ドンデン返し…に、なるんだろうか。

「塔矢、待って。俺に言わせて。気付いてたかもしんないけど、俺、お前のこと、ずっと―――」



二千年もの間咲き続け、命を繋いで来た花の前で、俺たちは新しい未来へと踏み出したのだった。














「どうして最初っから花を見せたいって言わなかったの?」
「だって・・・花なんて興味ないって言われたら、ちょっと淋しい・・・」
「――っ!?・・・塔矢でもそんなこと、考えるんだ!」
「好きな人に素っ気無くされたらと思うと、だ、誰だって臆病になるよ」
「好きな人・・・・・(じ〜ん)」

後日の会話。














 ― 花束 ―






進藤と二人で夜の街を歩いていた。

「今夜はやけに花束抱えた人が多くね?シーズンなんだなぁ…。」
「そうだね、卒業や謝恩会?や…送別会もあるだろうし。」
「なあ、花束持ってるヤツってさ、これからあげる方ともらった方とでは、な〜んか顔が違うと思わねえ?」
「は?そうかなぁ…。」

時々進藤は面白いことを言い出す―――僕が思い付きもしない、愉快なことを。

そこで僕は、たまたま近くにいた花束を抱えた男性を見た。

中年の男性だが、スーツにトレンチコート、実直そうな様子をしている。
ほんのり顔が赤いのは、もう結構飲んでいるのかな。

その脇には別の集団がいて、若い女性がいかにも会社の面々といった感じの連中と談笑していた。
彼女の持っている紙袋にも、可愛らしい花束。

「…花束を 抱え今夜は 主役かな。」
「へ?今の、何?」
「あ、ああ、いや…はは、ちょっと五七五で浮かんじゃって…嫌だなぁ、君の前でどうしちゃったんだろ。」
「わあぁ〜、今のすっげえ…お前らしーっ。あっという間に一句出来ちゃったのっ!?」
「いや、俳句じゃないと思うよ、季語がなければ…川柳というのかな?僕もよくわからないけど…。」
「ねねね、も一回言って言って…っと、花束を…抱え…今夜の、だっけ?その先は?」
「もういいよ、止してくれ、恥ずかしい…忘れてくれって。」

足早に駅へ向かう僕を、進藤が追い掛ける。

「いいもん、ホントは覚えてるもん…ただ、お前の声で、もう一度聞きたかっただけ…。」
「意地悪だな、君っ!」
「だって、お前、イイ声で歌うように言うんだもん…。」

不意に、手を取られた。人目があるところでは許していない行為だ。
彼の指先が、僕の手の平や指と指の谷間の弱いところを、戯れのように撫でた。

睨み付けると、肩をすくめる。ちっとも悪いなんて思ってない顔だ。

「お前に花、プレゼントしたくなったな。俺が花束を贈る方で、お前が受け取る方―――どっちも幸せだよなぁ…これって。」
「何もないのに結構だよ。…僕らにはそういう機会がもうすぐあるし。」
「あ…あ、そっか!お前の就位式、もうすぐだし…じゃあ、俺、とびっきりの花束贈る。皆の語り草になるようなヤツ!」
「ははは…春なのにひまわりだけとか止してくれよ?浮いちゃうだろう?」
「違うって〜、そんな意味じゃねえよ。お前こそ意地悪だな。ふん。」

拗ねた彼も、可愛い。凄く、可愛い…

「あ〜あ、俺がお前にもらえるのって、いつだろ?くっそ〜、早く勝ちてえっ!考えてみれば何でもない時にもらったって、嬉しさ半分だよな。卒業も謝恩会もない俺らにはさ、勝ってもらう花束しかねーんだ…。」

彼の言ったことに、はっとなった。


…その通りだ。
僕ら棋士にとって一番意味のある祝福の花束は、勝ってこそ贈られるそれなのだ。


何気ない日常にあっても、不意に思い知らされる。

僕らが棋士同士で、これからも死ぬまで闘い続けて行くことを―――

その厳しさの中に身を置きながら、二人一緒に生きて行こうと決意していることを―――


「でも、俺、お前にタイトル戦で負けても、花贈れるかなぁ…悔しくて悔しくて、サボテンの鉢とか贈っちゃったりして!?きゃははは…。」

明るく言う彼の言葉の中にこそ、棘が潜んでいるようだった…


僕は彼に真っ直ぐに向き直ると、彼の目を見据えた。

「―――贈れるよ、僕は。多分、息が止まりそうなくらい…眠れないくらい、悔しいと思うけど…。でも、君とだったら間違いなく最高の一局だ。最高の棋譜、最高のタイトル戦だ。…負けてもきっと、僕は僕ら二人をたたえて、堂々と君に花束を贈るだろう…。」

進藤が、驚いたように僕を見返した。
ああ…こんな時の彼の目は、何て澄んで美しいんだろう…

「花束を贈られる方も、贈る方も、どっちも主役だな…ずっとずっと、そんな闘いをしような―――塔矢。」

頷く僕を、彼の満面の笑顔が包み込んだ。

遠くない将来、僕らは花束を贈る喜びと、贈られる喜びとを、共に繰り返し味わうことになるだろう…

それは春の夜の、幸せな予感だった。















― 枯れない花 ―



「あーっ!やべっ!水遣り、忘れた…。」
「なに?進藤。観葉植物か何か?」
「うん、塔矢んちの。ちょっと繊細な花らしくって。難しいんだ。」
「でも、一日くらいいいんじゃない?」
「だけど、俺、今日から泊まりで、塔矢の帰りは明日の夜だから、結構空いちゃうんだよ。」
「誰かに頼めば?」
「鍵、持ってる人少ないし…それに俺がアイツに頼まれたんだから。」
「進藤…。」
「ワリイ、奈瀬。俺、後から追い掛ける。解説には間に合うようにするから。頼む。先、行ってて!」

まだ何か言いたそうな奈瀬を残して、俺は来た道を引き返す。
赤信号がもどかしい。タクシー乗り場が遠い。


―――その時、電話が鳴った。

『進藤?僕だけど。』
「塔矢!…ああ、ご免!俺、今、花のこと忘れてて…今から引き返すとこ。」
『引き返すって…君、時間ギリギリじゃないのか?今日は○○市でイベントだから泊まりだって。』
「うん…でもお前と約束したし!俺のせいで枯らしたら、申し訳ないし。」
『進藤、お願いだ、そこで立ち止まってくれ。まさか赤信号を突っ切ろうとかしていないだろうな?』
「え…。」

どうしてわかるんだとまでは、言わずに済んだ。
流石にそれを言ったら、塔矢が不安になるに決まってる。

口ごもった俺の事情を見透かしたのか、電話の向こうで溜め息が聞こえた。

『やっぱりそういうところか…頼むよ。急いだりしないでくれ。もうその必要はないんだ。』
「は?なんで…」
『仕事がキャンセルになった。詳しい事情はまた説明するが。もう僕は家に着くところだ。』
「なーんだ…そっか、そうだったのか。はは、は…良かったぁ…。」
『進藤、どうしてそこまでするんだ。まったく…。』
「だってさ、お前があの花を大事に育ててるの、知ってるし。お前が大事なものは、いつの間にか俺にとっても大事になっちゃうんだよ。」

狙った訳じゃなかった。
自然に口をついて出た言葉だった。


ちょっとだけ間があってから、塔矢の声が静かに流れて来る…

『だったら、君の体を大事にしてくれ。花なんかいいんだ。君に比べたら。…僕が一番大事なものは何だか、わかっているんだろう?』

くれぐれも、危ないことをして怪我なんかしないでくれと言われ―――胸が詰まった。


こんなこと、面と向かっては言ってくれない。
好きだ、も。愛してる、も。
俺ばかりが言う。塔矢からは滅多に返って来ない。

でも、言葉なんかじゃないんだな…

言葉を超えた想いがちゃんとそこにあるから、肝心な時にはそれが行動に現われる。
こうして、お互いを突き動かす。


「何か…早くお前に会いたくなっちゃった…。」

情けねえなぁ…と思いつつも、言わずにはおれなかった。

『僕もだよ…頑張って仕事しておいで。きっと君が帰る頃には咲いている…君に見せたかった、美しい花が…。』

愛しげに囁く声が、俺の心を優しく包み込む…


こんな風に、お前は俺の人生に小さな、けれどたくさんの、色とりどりの花を咲かせてくれる。

そしてお前こそが俺にとっての「枯れない永遠の花」なのだと―――噛み締めた。












NOVEL