― 断琴 ―
棋院で、随分久しぶりに進藤に会った。
彼は小脇に大きな荷物を抱えていて、僕を見つけると苦笑いのような、変な顔をした。
何だ…その締まりのない顔は…君のそんな顔を見ると吐き気がする。
無視して通り過ぎようかとも思ったが、予想外にあちらから話し掛けて来た。
「ようっ!お前も今日の帰りは大変そうだな?」
「…何の話だ?」
「え?だって俺にだってこんなに来てんだから、お前の方がもっと多いんじゃねーのぉ!?」
語尾がいやらしげに延ばされたのが、癇に障る。
進藤は、脇に抱えていた紙袋の中を見ろと言わんばかりに開いて、僕の目の前に差し出して来た。
色とりどりのパッケージが目に入って、その賑やかさがまた癪に障った。
「…何だ。これは。」
判っている。今日が何の日かくらい、僕だって知っている。でも僕はああ、そうか、沢山貰えて良かったなという気は、さらさらない。
――むしろ、逆だ。
「お前…知らないとは言わせねーぞ…一応お前だってオトコだろ?今日という日が気にならないオトコなんて、日本にはいねー筈だ。」
「それで?知りもしない女の子達からそんなものを貰って、君は喜んでいる訳か?はっ!どこまで君は…。」
「何だよっ!?その言い方はっ!?お、俺が何だっていうんだ。」
「君はアイドルか何かのつもりか!?ヘラヘラしたその顔を見るとたまらないな…。」
「いいじゃんかっ!?そら〜、こんなに貰ってこっちからは何もお返し出来ねーけどさ、俺チョコとか甘いもん嫌いじゃねーし…第一、気にしてくれる人がいるってのは、単純に嬉しいことない?わざわざ棋院に送ったり届けたりしてくれるって結構大変なことだと思うのに、俺が喜ぶかどうかなんて関係なくそうしてくれるんだぜ?」
言い返すというよりも、諭すように言われた気がして、僕もむきにならざるを得なかった。
「じゃあ訊くが、本当に欲しい人からは貰えるのか?君に本当に好きな人がいたら、それを貰うことをよしとしたか?」
進藤を、睨み付けた。
いきなり切り札を相手に見せてしまったと思ったが、これが一番彼にはダメージが大きそうな気がして、そうしたのだ。
「う…そこを突かれると…痛い…。」
「ふぅん、君でもそう思うか?じゃあ、それを嬉々として受け取ったということは、今君には本当に欲しい相手がいないということか?」
「塔矢…何だか、俺不思議な気がして来たぜ…お前と棋院のロビーでバレンタインのチョコの話をしてるなんてさ…お前でもさ、やっぱそういう話にはのって来るんだな?もしかしたら…俺が自分よりも貰ってるんじゃないかって気になるとか?」
「ち、違うっ!のるとかなんとかいう話じゃないだろうっ!?」
思いがけない方向から、切り込まれた。
僕は、進藤がチョコを貰うことが気になるんじゃない。…気になってなんかいない、断固として!!
そうではなくて。
「じゃあさ、お前は何が言いたい訳さ?」
意地悪そうに、上目遣いで見られた。
がさごさと、彼が脇に抱え直した紙袋の存在が――
その中に詰まった、進藤に対する不特定多数からのあらゆる気持ちの重みが――
僕を圧迫した。
「今から僕のうちへ来い!」
「…へ?」
間抜けな声だ。
「うちへ来て打つんだ。進藤。いいな。」
「あの〜、塔矢さん?俺の都合は?っつーか、どしていきなりそこへ話が飛ぶかな?今はバレンタインの話じゃなかったっけ?」
「じゃあ訊くが、本命のいなさそうな君が、今夜大切な約束でもあるというのか?」
「くう〜、今のもキイタ…ボディにキタ…」
ふざけた感じで腹を押さえて、体を軽く折る進藤を見据えたまま、その脇を通り過ぎざまにビシリと言い放った。
「いいか。僕も今から荷物を貰いに行って来るから、そこで待ってろ。一緒に僕のうちに来て打つんだ。」
なんで〜、お前だってチョコ引き取りに来たんじゃないかよっ!…俺にばっかヘラヘラとか言いやがって、ずり〜とか何とか喚いている進藤を残して、僕は事務局へと向かった。
二人して大荷物を抱えて、帰宅した。
自宅に宅急便で送ってあげてもいいよと言われたが、進藤もそれを断わって自分で持ち帰ることにしたのだと思うと、僕だって進藤の前で大荷物を抱えていたかった。
――だってそうじゃないか?
電車の中で、いかにもたくさんチョコを貰いましたと言わんばかりの進藤の横で、僕が手ぶらでいたら同じオトコとして格好がつかない。
自宅の玄関を開けると、琴の音がした。
「あれ…CDか何か?」
「母だよ。おさらい会が近いと言ってたから、練習してるんだろう。」
「へ〜、お前のお母さん、お琴弾くんだ!さすが塔矢先生の奥さんだなぁ。」
「何で父と関係があるんだ?君の言うことは時々わからない。」
「だってぇ…塔矢の家って、如何にも和風の暮らしって感じがするじゃん?ピアノ弾くよりお琴とか三味線とか…。」
「ピアノだってあるよ。そんなくだらないこと言ってないでさっさと打つぞ!」
へえへえ、打ちますよぉ、打てばいいんだろ・・・・と腐れた言い方の進藤にむっとする。
「いいか、君が僕に勝つまで帰さないからな?可哀想だから一手十秒の早碁にしてやるが、徹夜になるかもしれないからお家の人に電話しておけ。」
「おまっ…マジで言ってんのっ!?」
「冗談言うか、僕が。え?」
「でもさ、バレンタインの夜に外泊したら、親も変なこと考えるかもしれないじゃん?それって、ちょっとな〜。」
「それなら僕が出て、ご挨拶しようか?今晩は進藤君をお借りしますって。」
「ううう〜、それも淋しい…オンナの子じゃなくて塔矢と一緒だなんて…。」
「今更親に対して見栄をはってどうするっ!?君に彼女がいるかどうかなんて、親なら見抜いてるさ。つべこべ言わないでさっさと打つぞ。」
進藤がぐう…と咽喉の奥で唸ったのが、聞こえた気がした。
そして、観念しましたという表情をした後わかった…と小さく言うのを聞いて、僕は自分の思い通りにことが運んだことに、いたく満足した。
碁は、意外と緊迫したものになった。
渋々だろうと、一旦始めてしまうと進藤も真剣に打ってくる。当たり前のことだが、それがわかっているからこそ、彼の真剣の度合いを確かめたくて僕は彼を碁に誘うのだろう。
早碁だから、最中は殆ど言葉もない。
その分終局すると一気に緊張が解けて、堰き止めらていた呼吸や感情が流れ出すような感覚がある。それがまた、快かった。
五度目の対局が終わる頃には、いい加減お食事くらいしなさいという母の声に従うことにした。
喜ぶべきか、喜ばざるべきか…進藤はまだ僕に勝てないでいた。
食後に少し休憩しようということになり、月が綺麗に出ている縁側で母の剥いてくれた晩白柚(バンペイユ)という九州産の大きな柑橘類を食べた。
大きいと言っても半端じゃない大きさで、子供の頭くらいもある。皮が2,3センチの厚さなので、剥いてしまうと実はそれ程でもないが、矢張り普通の蜜柑の感覚とはかけ離れた代物だ。
進藤は剥く前の状態も見て驚いていたが、その味にも驚いていた。
「夏みかん…とも違うな〜、あんまり水気はなくて硬いし。それに苦味がある。」
「うん。独特の味だな。頂き物なんだけど、東京では滅多に見ないから珍しいだろう?」
「いっつも食べたい味ってわけでもねーけど…うん、面白かった!さっきさ、剥く前の大きなやつに思い切り落書きしたかった。」
だって人の頭みてえだから、変な顔とか描いたら楽しそうじゃん?…と笑い掛けて来る。
くつろいだ空気が辺りを包んだ。
少し前までは、彼に対する苛立ちや怒りにも近い、激しい感情が渦巻いていたというのに。
久しぶりに彼と対局して、僕の中のドロドロとした発酵物――彼と逢えない、打てない時間に生まれたもの――が、どこかに消えていくかのようだった。
逢えば、逢わなかった時間がなかったものになる。
顔を見れば、全てに答えが用意されている。
ああ、僕はこのオトコと友達でもあるんだなと改めて思った。
――友達…碁のライバルというだけではない。
だからこそ、僕は今夜、彼を誘ったのだ。
「進藤。どうして僕が今夜君と打ちたかったか、わかってるか?」
「ええ〜?俺がチョコ貰ってヘラヘラしてたんが気に食わなかったんだろ?」
「それはきっかけだ。」
「あ、じゃあさ、俺のチョコも味見してみたかったとか?今から食ってもいいぜ?あ、でもな〜、酸っぱいもの食べた後にチョコはマズイよな?」
「まだ茶化す気か?だったらすぐにまた打つぞ。君が勝つまでだ。」
「わかってるよ、塔矢。お前の気持ちは厭っちゅーほどな…。」
進藤は皿の実を全て食べ終えて、おしぼりで手を拭いながら、ゆっくりと答えた。
そして隣にいる僕を、真面目な顔で、見詰めてきた。
冬の月が天空にかかり、縁側は座敷の灯りよりももっと明るい天然の照明によって、照らされている。
陰影を持ったお互いの顔が、すぐ近くにあった。
その時、母の部屋からまた琴の音が流れて来た。
こんな時間に弾くことは珍しい。余程母も切羽詰っているのかもしれない。上手く仕上がらないと愚痴をこぼしていたのを聞いていた。
でも不思議なことに、琴の音色は深夜でも決してうるさいとは感じない。むしろ心を落ち着かせて、優しい眠りに誘ってくれるような気さえする。
夜にこそ、そのしっとりと闇に馴染む音色を聞くのが、僕は好きだった。
進藤はこのところ負け続けていた。
しかも、良くない感じの負け方が多かった。
僕は彼の棋譜や、前後の様子を見て、人々が噂するようにスランプなのだろうということはわかったけれど、どうしてやれるものでもないということも、痛いほどわかっていた。同じプロの碁打ちだし、僕は小さい頃から同じ状態の人たちを多く見て来たから。
でも、相手が進藤ヒカルだと思うと、僕は平静ではいられなかった。
最初はおかしいな…どうしたんだろうと訝しく思う程度で、その段階ではかえって君、調子悪いねとあからさまに言えた。
しかし負けが続くと、今度は軽く言えない雰囲気になる。
長いプロ人生、こういう時期も当然あるだろうし、そういうことも必要なのかもしれない。
最近の彼は僕をやんわりと避けている気もしたし、それは僕に自分の不調について触れられたくないからだろう、僕も逆の立場だったらそうかもしれないと思えたから、彼を遠くから見るだけにした。
そして――静観することは、罵ることよりも辛い時があるのだと、僕は初めて知った。
「今日棋院で逢わなければ…あんな風に言い合いにならなければ、今夜だって誘う気はなかった。僕は君を信じてる。誰よりもわかっているつもりだ。そしてそのことを君だって知ってくれていると思っていた。…だから最近君が僕と打ちたがらないのも、ちゃんと理由があると思っていた。」
「そっか…そこまで気が付いてた?別に打ちたくないとかそういうんじゃないけど…いや、そういうことかな?今、この状態でお前と打っても、お前にとって無駄な時間じゃないのかなってさ。」
「何を言ってるんだ!?無駄だと!?それはもし君が真剣でなければそうだろう。だけどさっきの対局は、どれも手応えがあったよ。君がどうして僕にそんな遠慮めいたことをする必要があるんだ?僕らはただの仕事仲間とかライバルとか…そういう関係だけじゃないだろう?」
進藤が驚いたように目を見開いて、息を飲んだのがわかった。
僕は何か変なことでも言ってしまったのかと一瞬うろたえたが、進藤の含み笑いにはっとして我に返った。
そう、進藤が驚いた顔で固まっていたのはほんの僅かな時間で、すぐに可笑しそうに体を揺すり出したのだ。
「笑われるようなことを言った覚えはないが?」
「い、いんや…可笑しいんじゃねーんだよ。何かさー、俺…一人でグルグルしてたんかなあと思うと、ははは…力が抜けて来たな…。」
そこで進藤は本当に脱力したのだろう。
ゴロンと後ろ向きに倒れて、そのまま横になった。膝を立てると、両手は額の辺りから頭を撫で上げるようにする。
僕に表情を見られないように両腕で死角を作ったのだと、その後に続く彼の告白を聞いて、思った。
「あのなぁ…こんなこと言ったら塔矢には軽蔑されるかもだけど…もういっか、言っちまうか。ふふふ…。」
「何だ?」
「俺が勝てないのはね、まあ、スランプと言ってしまえばそうなんだけどさ。その原因らしきものが、俺にもまだはっきりとはわかんねーんだけど、多分…個人的な、碁に関係のない、下らないことなんだよ。」
ほんと、すげー、くだらないんだ…と、最後は消え入るような呟きだった。
「言いたくないなら言うな。でも、聞いて欲しいなら聞く。…それだけだよ。」
もうこれ以上はないというくらい、当たり前のことを言った。友達だったら本当に言葉にするのも馬鹿らしいくらい、当たり前のことだ。
でも、進藤には僕の気持ちがキチンと伝わっていなかったような気がしたから、敢えて口にしたのだ。
少しの間があった。
――相変わらず、母が琴を弾いている。静かな曲調で、時々トレモロみたいに掻き鳴らしている――
やがて進藤が、身じろぎもせずに語り出した。
「あのな…俺、今気になるヤツがいんの。でもソイツは全然、全く俺に気がなくってさ、俺もどうして何でソイツがいいのかよくわかんなくって、自分で自分がよくわかんなくって…。」
「……。」
「んなことで、自分の碁が打てなくなるなんて、そっちの方が実はショック大きくって、でもそれだけ俺の気持ちが重たいってことなんかなって、逆に思い知ったりもして…俺って本当はこんなん、情けねーヤツだったんかと思うと二重に落ち込んじまうというか…。」
僕は、淡々と聞いていた。
進藤の悩みを聞いているのだから、彼の気持ちを受け止めることに専念すべきだ。
僕の感情なんて後回し。
だってそれが友達の悩みを聞くときの、正しい態度というものだろう。
いや、勿論僕の心の中にも何らかの衝撃があったのだが、それを溢れさせるわけにはいかない。出来るだけ蓋をしようと努めた。
そして、そのやり方が僕を助けていたのだということに、その時は気が付いていなかった。
「要するに、恋の悩みだということか?」
「う〜、そうハッキリ言われるとそうなんだけど、お前にそういう具体的な言葉を使われると、何だかな〜、余計にグルグルし出すというか…。」
「今日はその子から、チョコを貰えなかったのか?」
ズバリ過ぎただろうかとも思ったが、つい抑えられずに訊ねてしまった。
本命から貰えなかった割には、僕には嬉しそうにわざわざチョコを見せびらかしたように思えたのも、心に引っかかったからだ。
「くぅ…やっぱお前に言うことじゃなかったぜ…だから言ったろ!?全く俺に気がないのっ!ソイツはね、多分色恋には関心がなくて、二十歳くらいになったらお見合いでもして結婚してしまいそうなの。」
「そんな堅い子なのか?しかもお見合いで二十歳で結婚…今時、大層なお嬢様らしいな?」
「塔矢…冷静に分析しないでくれる?」
「あ、すまない…。」
でも冷静に分析でもしないと、自分の身の置き所がないような感じがするのだ。
「その子に、今日逢わなくて良かったのか?無理矢理連れて来た僕がいうのも何だが…もしかしたら君の思い込みで、ちょっとは脈があるのかもしれないし。」
「それは絶対にないのっ!今の段階では、望みは限りなくゼロに近い…って言うか、殆どゼロそのもの…。」
「えっと…じゃあ、仕方ないの、かな?」
進藤が力一杯否定してくれたので、彼には気の毒だが、僕は気持ちが軽くなった。
――軽くって…どうしてだろう?
矢張り、進藤に好きな人が出来たり、彼女が出来たら、僕に困ることでも起こると思っている証拠だろうか?
「言ったろ?自分でもまだ何だかよくわかんねー部分もあるっていうか。塔矢さ、お前、俺からこんなこと聞かされて…厭じゃねえ?」
進藤がそれまで顔を覆っていた腕を解いて、一気に上半身を起こした。
途端に目線が僕のと同じ高さになって、ドキッとした。
――それまで緩やかに流れていた琴の音色が、少しだけアップテンポになり、弦のはじき方も強くなる――
「別に厭なんて…ただ、僕には経験がないから大した相談にも乗れなくて…。」
「お前に恋の経験がたくさんあったら、困るよ…俺。」
呟きは低く、独り言のようだった。
そして今度ははっきりと僕の方を見て、口元を歪めるだけの、目元には変化をもたらさない笑顔を向けて来た。
言葉に詰まった。次に何を言えばいいのか、進藤相手に会話していて悩んだことなど初めてじゃないだろうか?
「塔矢は本当にチョコを貰いたいと思う子…いないんだよな?」
「ええ?君の恋の話とは、何の関係もないだろう?今はそんなこと…。」
言いながら、目を逸らした。
進藤の目を見ていると、自分の持ち札の中に、実はとんでもないカードが紛れているかのようで、それを一瞬だけ見せられたような気がして。
――琴の音が、いきなり激しく高らかなものになる。爪のついた三本の指でひっきりなしに掻き鳴らし、左手も素手の指で掬うようにして弦をはじいているのだ。僕も時々母の演奏を見たりするから、わかる――
・・・・ジャンジャンジャン・・・・ダンダンダン・・・・ビィンビィンビィン・・・・
そこまで狂ったように、激しく弾かねばならないものなのだろうか?
どこまでも続くハイテンションの音の洪水に、僕の気持ちは掻き乱され、心はどこかに押し流されてしまいそうになる。
必死で自分を保とうと、僕は進藤を見ない。
見たら、何かを知ってしまいそうで、怖い。
進藤の気持ちじゃない――それは僕の方の問題だった。
「塔矢はさ、えっと…こういう話をしてくれるってことは、俺のこと心配してくれたんだよな?だから今夜、こうして打つことで俺に渇を入れてくれたんだと思うんだけど。」
「……。」
ジャンジャンとうるさい音に掻き消されそうな声だから、僕は集中して耳を傾けた。
「そのことはスゲー在り難いんだけどさ、今俺が打ち明けた話を聞いて、こんなことで碁が乱れるなんて、実は思っていたよりも情けなくてつまんないヤツだって…俺に失望したりしてねえ?」
声に、突然今までとは違うニュアンスが加わった。初めて聞く、進藤の声だった。
どことなく不安げで、探るような、戸惑うような、切ない感じが混じっている。
もしかしたら、怯えているのだろうか?
…でも、何に?僕に本当にこんなことくらいで軽蔑されるとでも思っているのか?
彼の目を見まいと思っていたのに、その声が僕を振り向かせた。
息を吸うと、思いの他それが大きく響いて驚く。進藤は身構えるように肩をすくめて、体に力を入れたようだった。
――僕に怒鳴られると、覚悟したのだと思った。
その時。
琴の音が一段と大きくなったかと思うと、突然ブツッと切れた――何かに、弦を断ち切られでもしたかのように、音の余韻すら残ってはいない。
…何故だか助かった…という思いがして、安堵感がどっと押し押せて来る。
僕は吸った息を、はあぁぁ…っと長く吐き出して、やっと言葉を継いだ。
「進藤。君は『断琴の仲』という言葉を知っているか?」
「…は?だ、だん…。」
「断琴だ。だ・ん・き・ん。」
「ドーナツ屋?それ。」
「は?それこそ何だ?…悪かった。僕が君に知ってるかと聞くからいけない。そういう知ってるか、知らないだろうという反語的会話をしないで、ストレートに知らないだろうから教えてやると言えば良かったな。」
「お前こそ、いきなり何だよぉ!?」
「僕も最近母に教えて貰ったんだ。今、いきなり曲が終わって一瞬弦でも切れたのかと思ったけど、そうそう切れるものでもないし、多分そういう曲なんだろう。だけど、それでこの言葉を思い出したんだ。」
中国の故事だった。
琴の名手伯牙は親友の死を聞くと、この世には自分の琴を理解するものがいなくなったと嘆き、琴を自ら壊しニ度と弾くことは無かった――という、故事だ。
以来、『断琴の交わり』とか『断琴の仲』と言われる。
今では殆ど耳にしない、とても古い、固い友情を表す言葉だ。
『断琴』だけを取り出すと、『親しい友を亡くすこと』と書いてある場合もある。
「僕が何を言いたくてこの話をしたか、わかるか?」
僕は進藤にこの言葉の意味を説明すると、彼をまたしっかりと見据えた。
彼は臆することなく、僕を見返してきた。彼の大きくて綺麗な瞳が潤んでいるのは、僕の見間違いだろうか?
そして、次に聞こえた彼の声には、先ほどにはなかった生気が戻っていた。
「俺に、死ぬなってこと?長生きして、ずっと自分と打てって?」
「それは究極だ。確かにそうなんだけど…それだけ僕は君を信頼している。僕にとって、何ものにもかえ難い人だということだ。」
――その通りだった。
初めて母からこの言葉を聞いた時は、親しい友人を亡くすことだと思うと言われた。
気になって調べてみたら、由来となった故事を知り、金襴の交わりとか水魚の交わりとかは知っていたけれど、こういう言葉もあるのだと――その激しいまでの魂の結び付きを表すかのような言葉に――進藤と自分の姿を自然と重ねた。
まさか今夜この話をすることになろうとは…よりにもよって世間はバレンタインで浮かれている時に、オトコ同士の友情の話をしているなんて。
…一体どうしたことなんだ?
「塔矢…俺、何て言っていいかわかんないくらい、嬉しい…。」
彼の声は、少しだけ上ずっていた。
でもそれは明らかに、怯えから来るものではなく、心の底から湧き出す歓びが体に伝わって生まれる震えのせいだったように思う。
「嬉しいと今、言ったじゃないか。そう思ってくれるなら、いいんだ。君は苦しみつつも、でも打って来たんだろう。そして碁への真剣な気持ちがあるからこそ、スランプに陥った自分を許せなくて一層苦しんだ。…そんな君を、どうして僕が軽蔑なんかする?」
進藤は月明りを受けて、でもそんな弱々しい光などいらないくらい、眩しいまでに晴れやかな顔を見せた。
今日最初に棋院で出会った時のような、大事な話は逸らして卑屈な様子をしていた彼とは、別人のようだ。
本来進藤ヒカルとは、こんな風に自らが強烈な光を放つ、太陽のような人物だと僕は思った――
「僕は、君と生涯を掛けてこういう仲になりたいんだ。もうその道のりは始まっている。君が碁を止めたら…そしたらその時は、確かに軽蔑すると思うけど。」
「うん。」
「僕が本当に響き合う相手だと…僕のことを、僕の碁を理解してくれるのは君だと思ってる。」
「俺もだ――塔矢。俺もそうなりたいし、お前が俺にとって、そうなってくれればいいと思うよ。」
進藤の言葉は、まるで光線のように僕の心の奥深い部分にまで届いて、この胸を熱く熱くする。
そのくらい彼の声には喜びの響きがこもっていて、そうさせたのは自分だと思うと、またそれだけで僕は本当に満足だった。
もしかしたら、それはどんな愛の告白よりも、尊いものだったかもしれない――
少なくとも、その時点での僕にとってはそうだった。
好きな女の子もいなければ、当分そんなことに気持ちを割くゆとりもない。
進藤ヒカルだけが、僕の目の前にいる、確かで唯一の大切な存在だった。
ライバル…友達…どんな名前を付けても正しくはない気がした。
どんな名前も僕らの関係の全てを表すには足りない。相応しくない。
言い換えれば、僕らはとても複雑で、難しい関係を築こうとしていたのかもしれない。
そして、それが君と僕とでなら出来ると密かに過信していたのかもしれない。
例え君に好きな女性が出来ようとも、碁を介して繋がっている僕の敵ではないと、傲慢なことを思っていたのかもしれない――
また、母の琴の音色が聞こえてきた。
今度は、静かに始まった…さっきとは違う曲のようだ。
なだらかに奏でられる旋律は、僕らの毎日の営みの穏やかさと、そして積み重ねの確実さとを感じさせる。
「進藤。そろそろ打つか?君、まだ僕に勝ってないだろう?」
「くっそ〜、いいところまで追い詰めたんだけどなぁ、特に最後の一局!腹が減って集中出来なかったからさ。」
「言い訳はいい。さ、徹夜にならないように、とっとと僕を負かしてみろ。早碁は得意だろ?」
「はいはい!わ〜かったよ!お前も俺を立ち直らせようとか、早く寝たいからとか、テキトーに打つんじゃねえぞ?」
「僕がそんなことする訳ないだろうがっ!?」
いつもの僕らに戻っていた。
この数週間の緊張も、さっきまでの進藤の告白がもたらした不思議な時間も、全ては日常に埋もれていくのだろう。そして、それでいいのだ、多分…
来年、君はもっとたくさんのチョコを貰うかもしれない。
君の想い人が、君に振り向くかもしれない。
或いは、別のもっと好きな人が出来るかもしれない。
それは仕方のないことだ。
僕がそれで胸を痛めても、淋しくなっても、それで君が幸せで、そして僕との仲も大事にしてくれるのなら、何とか折り合いを付けてやっていける。
だって僕らには、何をおいても碁があるから。
――己を理解しうるたった一人の人間を失った時、生涯を賭けて来た大事なものですら手放してしまう…そのくらい、相手を欲する、相手を認める、相手に自分を捧げる…そんな仲に、僕らもお互い、なっていきたい。
それには、その他の余計な感情はいらない。
より純度の高い結び付きの為には、もしかしたら切り捨てなければならない感情もあるのかもしれないと、そのことをぼんやりと悟り始めていた16歳の2月14日の出来事だった――
ふと、手の甲に残る爪痕に目がいった。
塔矢に付けられたものだ。
…アイツ、やっぱりまだ辛いんだろうなと、その我慢強さに呆れる。そして、感動する。
同じ形の人間、同じ機能しか持ってない人間。
塔矢は、それを受け容れることを選んだ。アイツは俺を受け入れて、同じ熱を分け合い、その熱に巻かれ、痛みを、羞恥を、後悔を、自らの中に閉じ込めてしまう。
もっと言ってもいいのに。
痛いから止めろ。悔しいから、そんなことするな。
もっと、もっと、自分を曝け出してくれてもいいのに。
俺は、一体どうすればいい?
体の痛みは、どうにでも出来るだろう。
――でも、心の痛みは?
心が隅々まで気持ち良くなければ、体の快感なんて、半減してしまう。
心に羽が生えて重量を失くす時、体もどこまでも快感を追って昇って行けるのだと思うから。
今日、俺は塔矢と一緒に居ることにしている。世間的にはバレンタイン・デートというやつだ。
実際には、俺は一日休みに出来たが、アイツの方は手合いがあって夕方からの合流になる。
奮発して、ホテルをとってあった。
部屋にはもう花だのシャンパンだの頼んであるので、俺は塔矢と逢えるまでロビーや庭園で時間を潰すことにする。
ホテルの部屋で過ごすことにしたのにも、訳があった。
塔矢と俺が、友達のラインを越えて同性でありながら愛し合うようになったのは、一年前くらいからだ。
その時から、俺達の心には、誰にも言えない秘密を抱えた者だけが持つ、翳りが生まれた。
相当の覚悟をして、すったもんだの末にこうなったというのに――俺達の選んだ幸福は、後ろめたさと背中合わせのものだった。
そのせいだろうかと思う。
塔矢は未だに俺とセックスするのが辛そうなだ。
いや、辛いというよりも、楽しむことをいけないことだと思っている。
俺が我慢がきかなくなるまでは、塔矢の方から誘ってくることは、一度もなかった。
始めてしまえば反応はしてくれる。
人間なんだから、好きなヤツと触れ合って体が反応しない訳はない。
俺の求めに応じて、それなりのことだって受け容れてくれるし、俺にもしてくれる。
…ある意味、断わることすらしない、それが問題だった。
熱を吐き出してしまえば――急速に冷めていく体と共に、それまでスパークしていた快感の眩しさに目くらましされていた、負の感情が戻ってくる。
人知れず付き合う罪悪感と、だからと言って離れられるものではないという無力感に、苦い想いを噛み締める。
体の快感で、そういう気持ちすら誤魔化そうとしているのでは?
体を重ねることで、その苦さを恋の甘さと混ぜてしまい、本当の味をわからなくさせているのでは?
そういう塔矢の逡巡が、俺には手に取るようにわかっていた。
だって、好きなヤツが何を考えているか…わかってやりたいから。
行為の後の気だるさだけでなく、もっと奥深い部分で脱力して沈み込んでいるのだと、アイツとベッドの上で抱き合っている時に、その表情や言葉や雰囲気から、感じ取っていた。
ロビーを抜けて、ラウンジに向かおうとしたら、結婚式に出くわした。
郊外の小さなホテルで、隠れ家みたいなところが気に入って選んだから、まさか結婚式をやってるなんて。
そういやレストランウェディングって流行ってるから、ここのフレンチレストランでやっているのかもしれない。大きな宴会場やチャペルはなかったと思う。
花嫁はフンワリしたドレスじゃなくて、体にフィットしたタイトな純白のドレスを着ていた。
へ〜、こういうデザインもいいもんだなぁ…
隣の花婿も結構いいオトコじゃん?
まだ若い感じ…二人とも20代の前半、俺と同じくらいに見えた。
結婚式か…
ああいうドレスって、塔矢でも似合いそう…体の線が細くて流れるようで、オトコのくせにスゲー色っぽいんだよ…とか何とか妄想を膨らませていたら本人が現れて、肝が冷えた。
いつの間にか、結婚式の一団を眺めている俺の背後に立っていた。
…まさか、俺の心の映像までは見えちゃいないだろうな。
「早かったじゃん、塔矢。いつからそこにいたの?」
「少し前。君、にやにやして見ていた。」
「え?そっかな〜…でもまぁ、そうかもな。だって人が幸せそうにしていると、こっちまで頬が緩んで来ねえ?」
「君らしい…。」
折角笑い掛けたのに、塔矢から帰って来たのは無表情な一言だった。
…あれ?何か疲れてる?もしかしたら――負けた?今日の対局。
俺はドキッとした。今日は負けるような相手じゃなかった。問題もなく勝ってから来るだろうと、安心しきっていた。
「お前、疲れてそう…すぐに部屋に行く?食事の予約キャンセルして、ルームサービスでもいいぜ?」
出来るだけ優しく言ったのに、それがかえって気に入らないとでもいうかのように、つっけんどんに返された。
「いい。ここは魚介が美味しそうだから、和食を食べたいって思ってた。」
「じゃ、行くか。お前が食べることに積極的なんて、嬉しい感じィ〜。」
さり気なく塔矢の肘の辺りを撫でる。そのまま、軽くそこを押すようにして促した。
別に性的でも何でもない一瞬のタッチだったが、過敏に反応された。
…大袈裟なくらいの動作で、振り払われたのだ。
一体どうしたんだよという言葉が出そうになったが、俺はそれを飲み込んだ。
塔矢が店も知らないくせに、まるでこの場所から早く離れたいとでもいうかのように、スタスタと振り向きもせずに歩いて行ったから――
和食のその店は、ガラス張りの窓から庭園が見えて篝火が焚かれていた。その向こうには夜で見えないけれども、冬の冷たい海が広がっている筈だ。
室内の照明も極力落とされ、舞台では琴が演奏されている。着物を着た若い女性で、演奏は控え目だった。
琴を見ることも、演奏を聴くことも滅多にないのに、よりによって今夜ここで…と、ちょっと不思議な気がする。
もう、食後のデザートになっていた。
「確か、えっと、俺らが16の時だから…6年前のバレンタインの日だったよな、お前んちに拉致られてさ、早碁を何局も打たされてとんでもないバレンタインだったな〜。」
「拉致って…・何だ、その人聞きの悪い言い方は。」
「はは…だってそうだったじゃん?あん時、お前のお袋さんがお琴を弾いててさ、俺ら縁側ででっかい蜜柑のオバケみたいの食ってて…。」
「晩白柚だよ。」
「うん。そうそう、そんな名前だった。そん時…お前、『断琴の仲』って言葉を教えてくれたよな?」
「覚えていたのか?」
塔矢が、今夜初めて心を動かされたという顔をしてくれた。
それほどまでに、食事中は覇気がない様子だった。
「覚えているさ。今までだってお琴を見たり聞いたりすると、必ず思い出していたんだぜ。ただお前にはそれを言わなかっただけだ。俺は、あの晩お前が俺に言ってくれた言葉の全部を大事にしてきた。一字一句、忘れちゃいねぇ…。」
お前がどんな表情で、どんな声色でそれを俺に告げたか――全部全部、覚えている。
その時の幸福感と、同時に、では矢張りこんな恋心は捨ててしまった方が得策なんだという失恋にも似た気持ちがない交ぜになった感覚を、俺は急に思い出した。
すると、体の芯から、何か熱いものがせり上がってくる。
二つの相反する想いは、俺をひどく苦しめはしたけれど、かえってその分塔矢のことを完全にそういう対象として意識させ、塔矢を欲する気持ちを押し留めるどころか、拍車をかけさせた。
今夜、塔矢に対して感じているものも、あの時の若い自分のせめぎ合いに似ている気がした――
幸せであると同時に、幸せでない芽も持っている。
だから、まだ俺は塔矢を手放せない。
完全でないからこそ、執着していると思う。
もっと愛せる。
もっと幸せに出来る。
もっと二人で遠いところへ行ける。
俺達ならきっとそれが出来ると、証明したい――
引き返したいと塔矢が思っているとしたら、どうやって俺はそれを翻させれば、いい?
自分からは何も言わない塔矢に、俺はどうしたら、いい?
「あの言葉どおりの仲になりたかった…。」
塔矢がどこか遠くに視線を飛ばして、夢見るように呟いた。
「なりたかったって…その途中じゃねーのか?俺達は。それとも…お前は何かを諦めているのか?」
塔矢から零れ出た言葉を、俺はすかざず掬い上げた。
「今の俺達の関係を、お前はそこまで認めてないのか?…他人のことじゃねえ…お前自身がいつも後ろ向きだっ!」
強い語気に、塔矢がはっとして俺を見る。
「こうなった以上は、もうとことん俺のことも拒めねえ…自分も同意して始めた以上責任?ってのがあるから…でも、自分から積極的には求めない。一応寝さえしなきゃ、どこからどう見たってただの友達だもんな?人に疑われたってさ、例えば何ヶ月、とか半年とか俺と寝てなきゃ、以前はそういう関係だったけど、今は違う、だから僕は今はもう進藤と友達だって…自分に言い訳がたつもんな?」
ここまで言うつもりはなかった。
席を立って、帰ってしまわれても不思議じゃないほどのことを言ってしまったと、思った。
塔矢は驚いた顔で聞いていたが、やがてその顔には苦渋の色が浮かび、更には青ざめていった。
息の詰まるような沈黙が続いた。
微かに琴の音色が聞こえ、ああ、6年前の塔矢のお袋さんの演奏を思い出すなと、俺は全然違うことを考えて平静を保とうとしていた。
「君にそう思われていたなんて、想像もしてなかった。僕は矢張り、自分のことに精一杯で、君を苦しめていたんだな。あの…6年前の幼かった僕と、何にも変わっていないんだ…ひとつも成長していない…。」
「塔矢…。」
「君の言うとおりだよ、進藤。僕はね、自分からあんな風に、君とは唯一無二の親友になりたいみたいなことを偉そうに言っておいて…我慢が出来なくて、君に手を伸ばしてしまった。心だけでなく、体もひっくるめて君の全部が欲しいと思った。そしてそうしてしまった…。」
「いけないのかよ?それが…好きなんだから、愛してるんだから、それだけじゃ駄目か?」
「確かにね…僕らの前に横たわる障害のようなものは、普通の男女の恋愛の場合とは多少異なっても、世の中にはもっと複雑で大変な関係だってあるかもしれない。自分たちが、世界で一番可哀想な恋人同士だなんて…そんな風に陶酔している訳でもないよ。」
塔矢はそこで言葉を切って、そっと目を伏せた。
琴の音が止んで、まばらな拍手が聞こえたからだ。
「親友が死んだ時、人生を賭けた琴の道を絶った。そのくらい、強い結びつきだったんだ。誰も間に入れないくらい。…僕は、そういう関係に憧れていたんだろうな。もし僕が我慢出来て、君と友達関係で満足してこの数年をやり過ごしたら、きっと僕らはお互いへの恋情をどうにか紛らわせてしまえたよ。いつか、そういう意味ではお互いを見なくなって…親友として、碁のライバルとして――本当に『断琴の仲』になる日が来た。」
「じゃあ、止めるか?お前がそうしたいなら、止める。止めてやる!でも…そしたら時間は必要だ。暫くはお前とそういうことしたくって、お前を見たら体が…疼く…100パーセント親友に戻れる日がいつ来るか…約束は出来ない。」
言ってしまって、俺はスッキリした。晴れ晴れとした。
…きっと、塔矢も俺からこの言葉を聞きたかったんだろうよ。
ところが。
顔を上げた塔矢は、呆然として今にも泣き出しそうだった。黒い瞳が明らかに水分を持て余して、溢れそうになっている。
…え?違うのか?お前が聞きたかったのって、こういうことじゃ…ないの?
「進藤。僕はね、君に恋してしまった自分に…我慢がきかなかった自分に呆れていたんだ…そして追い討ちをかけるみたいに、君のことをどんどん好きになる。君と抱き合うと死ぬほど良くて、どうにかなってしまいそうになる。そんな自分が厭だから、出来るだけ抱き合いたくなかった。」
「塔矢…。」
「どうして僕がこんな考え方しか出来ないのか…その理由はわからないよ。両思いならそれでいいじゃないかって割り切れたらどんなにいいだろう?でも…今日も棋院に沢山の贈り物が来ていたよ、君宛に。それを見たら…もしかしたらこの中の誰かと君は普通に恋愛出来たかもしれないのに、大勢からのチョコを断わって自分には好きな人がいるからと堂々と言えたかもしれないと…それを邪魔したのは僕だ。」
搾り出すような苦しげな声が痛々しくて、塔矢の気持ちが俺の深いところまで届いた。
人から見たら、どうしてコイツはこんな風にしか考えられないのだろうと苛立たしく思われることでも、自分の心が自然にそう感じてしまうのだから、コントロールなんて出来やしない――それが人間だ。
こうなりたかったという若い時の理想と、でも実際に辿ってしまった道筋とのギャップに塔矢は苦しんでいたのだと、初めて実感としてわかった。
どうしよう…今すぐ触れたい…一刻も早く抱き締めて、慰めて、そして俺がどうしたいのか、わからせたい!!
でも今ここで俺に出来るのは、塔矢の目を見て、自分の真剣さを伝えることだけだった。
「お前、やっぱ子供だ。どうして自分のことばっか責めるんだよ?俺だって、お前の将来を変えちまった…お前を好きになって、恋人関係になることを選んだのは、俺自身だ。俺達は、二人で一緒にこの道を選んだんだろうが?」
そんなことは十分わかってる…でも…と、まだ俺の目をちゃんと見ようとしない塔矢に焦れてしまう。
くそぅ…言葉でどんなに訴えたって、コイツには通じやしない。駄目だ、駄目だ…もっと、熱く、激しい、痛みと紙一重なくらいの愛で包まなきゃ、コイツの心は溶けやしないんだ。
「塔矢…部屋に行こう?今すぐ、行こう。早くお前を抱きたい…俺がしたいことをさせてくれるんなら、お前が言うところの普通の人生を邪魔したこと、チャラにしてやるよ。…それで、いい?」
「進藤。本当にいいのか?僕は、これからも君みたいには真っ直ぐ考えられないかもしれない。ずっと…意味のないことを考え続けて、君に厭な想いをさせるかもしれない。」
「俺が厭な想いをするのはね、お前が俺に何をするかじゃねーの。俺がお前に何もしてやれない…楽にしてやれないことが辛かったんだ…。」
「……。」
「今夜は、もっとたくさん話そう?もっとたくさん触れ合って、それから…えっとここでは言いにくいな?さっさと行こう。もう待てない…。」
塔矢の目尻に光るものがあったけれど、それよりもほんのりと染まったその場所の色の方に、俺は気を取られた。
やっと…やっと塔矢も、俺と全く同じ気持ちになってくれたんだと、わかったから。
部屋に入ると、重たいドアがのろのろと閉まるのが待ち切れなくて、俺達はすぐに抱き締めあった。
ドアが完全に閉まる音を背中に聞いた時には、もう唇が重なっていた。
何度も角度を変えながら、押し付けあう。
4本の腕は、切迫した気持ちを伝え合うかのように、せわしなくお互いの体を這い回る。
「あああぁぁ…好き、だ…お前が、死ぬほど、好きっ…。」
「しんどー…僕、もっ…あっ…好き…。」
もつれ合ってベッドに乗り上げ、お互いの服を脱がせ合った。
いつもなら自分達で脱ぐけれど、今はとにかく相手の体が見たかった。相手の肌に触れたかった。
――塔矢と俺は、寸分違わぬ同じ強さ、同じ深さで、今、相手を欲している。
だから自分ではなく、相手の服を剥いで行きたい。相手の心の中を見たい――
引き千切るようにシャツのボタンをはずし、ベルトもズボンも下着も、靴下さえも、俺達はお互いのものを争うように脱がせて行く。はたから見たら余裕がなさ過ぎて、お互いに乱暴し合っているのではと思えるほど――何もかも激しく、ことを進めた。
塔矢がここまで積極的になるのは、初めてだった。
そのことに煽られて、もう俺もおかしくなってしまいそうだった。
裸の肌が触れ合うと、背骨をピリリと電気が駆け上がり、塔矢の中心が俺の腹を掠めたのを感じた。それを追っかけるように、俺の中心も勃ち上がった。
二つの欲望が絡み合うほどぴったりと体を締め付け合い、俺達は膝立ちのまま、息が止まりそうなキスを繰り返す。
いつもはおずおずと、まるで気が進まないと言わんばかりの静かな始まりなのに、今夜のキスは全然違った。
塔矢の方から俺のテリトリーに侵入し、舌先が暴れたり、引き出した俺の舌を吸い上げたり、コイツ本当はこんなことが出来るんだと、俺を驚かせる。
このままだとキスだけで達してしまいそうで、それは勘弁と塔矢の頭を引き剥がした。
「おま…どした?スゲー…キスがあんま良過ぎて…俺、酸欠で、頭の芯がクラクラしそう…。」
「わかんないよ。君がさっき、結婚式を見ていた顔が、何かを羨んでいるようにも見えた。でもその後、素直に見ず知らずの人を祝福出来る、君のその純粋さみたいなものが眩しくて…自分が恥ずかしかった…そして、もっと君を好きになりそうで怖くなって――それなのにっ!君がもう止めてもいいなんて言うから、どうしようって…それ聞いて、僕もおかしくなったのかもしれない。」
「体で引き止めてくれんの?俺のこと…。」
白い、青白いくらいの塔矢の頬が、俺の言葉で紅潮し、息が乱れた。
「そんなつもりじゃ…。」
「それって、俺が考えていたことと一緒かもしんない。」
「え?どういう…。」
「体当たりでって意味だよ。自分の持てるもの全部で、考えられる全部で。だって初めてだろ?俺んち以外でお泊りするの。この部屋いいだろ…花もいい香りがするし、シャンパンもあるし、音楽だってあるんだ。ベランダからは冬の海も見える。いつもと違う雰囲気だと、お前も自分を曝け出し易いか〜なんてさ?」
「進藤。僕も君に、いつもと違うことをしてみようと思って…。」
そう言いながら、塔矢は足元に落ちていたバッグから包みを取り出した。
「つかい回しじゃないからね?これはちゃんと自分で買ったんだ。」
塔矢が俺に差し出したものは、明らかにそれとわかる包みだった。
「マジ?チョコレート、くれんの?俺に…。」
「来る途中で適当に買ったから…あっ!適当って、そういう意味じゃなくって、その…お店で一番美味しそうなのにしたんだ、これでも。」
「ああぁっ!!嬉しいっ…俺、もうどうしていいかわかんねー…。」
俺は、塔矢がさっきまで鬱々としていた人物と同じだとは思えなくて、そのいじらしさが気が遠くなるほど嬉しい。
早速包みを開けて、その中の一つを口に含む。
「甘い…。」
舐めながら、言う。すると塔矢が笑った。
「何も今、こんな状態の時に食べなくてもっ!裸でチョコなんて、可笑し過ぎる。」
その笑顔があんまり無邪気だから、抱き寄せてベタなことをしたくなった。
「口開けて…アキラ…。」
「――っ!?…進藤?」
「アキラって言ったんだよ?ほら、開けて…。」
――名前を呼ぶのも、初めてだった。
それは呪文のように働いて、塔矢の体も心も開かせてくれた。
どんどん小さくなるチョコを何度もお互いの口内に移し合って、最後は溶けて跡形もなくなる。
とうとう舌先には何も乗っていなくて、ただ甘い味だけが残っていた。
それを貪るように舐め合って、いつもよりうんとうんと甘い唾液が溢れて零れる。
「もっと食う?」
「ふぅ…もう、いい…甘過ぎて、胸が…。」
「うん。俺も1個で100個くらいチョコ食った気分…アキラの舌がどんどん甘くするからさ、たまんねーよ。」
「進藤…その呼び方。」
「これも初めてだよな?俺らって、ずっと遠慮がちだったろ…いつも何かに怯えてるみたいで、抱き合っても楽しんでなかったかも。楽しむことは悪いことじゃねーよな?お前が抑えていたその気持ちもわからないでもなかったけど…。」
打ってる時や、普段の時の方が俺達はリラックスしていたかもしれない。
二人きりになってそういう空気に変わると、今度はやけに緊張して、セックス自体も激しくしてはいけないような気がしていた。
塔矢の中にある関係への躊躇いや、受け容れる側としての気恥ずかしさを思いやると、俺だけが暴走してはいけないと、最後まですることも毎回じゃあなかった。
でも今夜は違う。
新しいことに挑戦して、新しい段階に踏み出さなければ、ずっと中途半端なものを抱えたまま、どこかから綻びてしまうかもしれない。
今夜は塔矢が何と言っても、俺の気持ちを体に訴えてやろうと、決めた。
全ての迷いを払拭して、最高だったとコイツが言わずにはおれないようにしてやりたいと、思った。
チョコの箱を放り投げると、俺は塔矢の体を横たえて愛撫し始めた。
「んん…しんどー…んはっ!…ぁ…。」
「ヒカルって呼んでみなよ?そしたら、もっと気持ちいいかも…もっと、俺のこと、好きに…なるよ、きっと…。」
体中にキスを降らせて、手のひらを滑らせて、塔矢の息が荒くなっていくのを確かめていた。
「ヒカ…ああぁっ!駄目だ…・何だか、恥ずかしくって…今更君の名前なんて、呼べない。」
「何で恥ずかしいんだよ?アキラ…俺はずっとこう呼びたかった。でも、お前がそういうの嫌いかもって我慢していた。だってさ、俺達って結構不器用で、友達モードと恋人モードの切り替えが何て言うのか…下手じゃん?」
言葉を生み出しながらも、塔矢の体へ話し掛けることも忘れない…俺の指で…唇で…吐息で…
塔矢はもう弾けそうになっていた。
でも、許さない。俺の名前を呼ぶまでは、イかせない。
「も、僕、は…ううぅ…。」
塔矢の根元を掴んで、堰き止めた。体への愛撫を続けたままそうしたから、アイツは達する一歩手前で足踏みさせられて、大きく喘ぐ。
「言って…ヒカルって、呼んで。」
――ヒカルって呼んだら、もっと気持ちよくなって……
もっともっと、俺のことを好きになって……
そしたらきっと、迷いも後悔も全部薄くなってしまう。
…もう、俺から離れられなくなるよ――
「ヒカ…あ…っ…ヒ、カル…ヒカルーッ…!!…」
最後の叫びは、大きくのけ反った塔矢の咽喉から飛び出してきた熱い塊のようだった。それが俺をもノックアウトして、もう激しく腰を擦り付けあうしか出来なくなった。
「アキラァ…ッ…!!」
うわ言のようにお互いの名前を呼び合いながら、俺達は昇り詰めて行った――
それからはもう、お互い箍が外れたように抱き合った。
それはまるで、二人で奏でる音楽のようで。
どこを触っても、塔矢はあられもない声を上げて、身をくねらせた。
優しく撫でるように触ると、小さくリズムを刻むように震えて、息を乱す。
激しく吸い付くと、高い音が綺麗に長く、尾を引いてゆく。
――お前の体ってまるでさ、楽器みたいだな?何て…何って艶っぽい、いい声で鳴くんだろ――
――鳴くなんて、言うな…それを言うなら…うたうって言ってくれ――
――ああ、そうだぁ…うたうように弾くもんなんだな、お前の体は…
あのお琴みたいにさ…小さく掻き鳴らしたり、大きくはじいたり、俺の加減次第で、お前はどんな風にも、うたうんだなぁ――
愛撫で体のあちこちが色づき、再び欲望を顕わにした塔矢のその部分を、俺は愛しげに何度も含んだ。
さっき、チョコを与え合った時みたいに、とろかすように舐めてやる。
塔矢の全身が痙攣するように跳ね、その動きを封じ込めようとアイツは必死でシーツを握り締め、両足を俺の背後に絡みつかせる。
こんな風に俺に縋り付いて来る塔矢を見るのも、殆ど初めてだった。
無意識にそうしているんだろうと思うと、俺も悦びに高まってくるのを抑えられない。
いつも用意しているものを使って散々解してから、俺のものの先端でそこを突付いた。
いい?と小首を傾げて笑い掛けると、馬鹿、早く…・と、塔矢の方から腰を浮かせて囁いてくれた。
俺は深く塔矢の中に入り込みながら、その全てを受け止めようと思った。
もっと幼い時に描いた未来とは違う道だという戸惑いも…これからも悩み続けるのだろうかという憂鬱も…全部全部だ。
「もっとうたって…もっとその声を聞かせてよ…アキラ、アキラ、アキラァ…。」
「ヒカル、ヒカル…ヒカ、ル…。」
塔矢の、少しハスキーがかった、息が漏れるような声が好きだ。
その声こそが、俺にとっては何よりも幸せを与えてくれる楽器なんだと思えた。
繋がり合ったまま、最初は痛くないようにとゆっくりだった動きも、呼び合う名前の不思議な力で段々と高まってゆく。
それは演奏が、最後の盛り上がりに向けて幾重にも音を重ねながら激しくうねってゆくさまにも似ていた。
「んはっ…はっはっ…愛し、てる、アキラ…絶対…離さねぇ…。」
「ん、ん、ん、ん…ヒカル…僕、も、あ、い、し…っーっ!」
「お前を、うたわせるの、は…俺だけ、だ…アキラ。」
「も、イく…ヒカルッ!」
「アキラッ…!…。」
俺達は、体を揺らしながらもお互いをきつく抱き込み、最後は無理な体勢なのも構わずにキスをしながら、長く甘い放出の快感に震えていた。
俺の中に、いつも流れ込んでくる、塔矢アキラの旋律――声や、表情や、視線や、体温…全てが音楽だ。
その心地良さに包まれて、ずっとずっと幸せでいられるように。
アイツが今何を考え、何を未来に望むのか、感じられる自分でいたいから――俺は今日も新しい弾き方を学ぶ。練習を怠らない。
最高の愛で、愛しい人をいつまでも奏でられるようにと願いながら、俺達は、22歳の2月14日の夜を過ごした――