― BREATH ―
進藤に、「引っ越し祝い」は何がいいかと訊ねたら返って来た答えに、僕は少し驚いた。
いや、何か具体的なものを想像していた訳ではないが、彼の求めるものは普段の彼のイメージには結び付け辛いものだったから。
『観葉植物』―――それが進藤の指定した、引っ越し祝いだった。
「別に何でもいいぜ。お前のセンスで選んでくれたら。」
「意外だったな。君が園芸に興味があるなんて。」
「えんげい?……はは、そんな大層なもんじゃねーって。観葉植物くらい誰だって置くだろ?……あ、お前んちは庭がスゲーし、玄関や縁側には胡蝶蘭ばっかだもんな。」
進藤が一人暮らしを始めるというのは、僕には何故だか落ち着かない話題だった。―――どうしてだろう、何が気になる?……どこが引っかかるのだろう?
僕よりも早く独立する機会を得た彼を、密かに羨ましいと思っているのだろうか。それとも、ますます僕の知らない進藤の世界が出来てしまうことが淋しいのだろうか。
己の心を用心深く探ってみるものの、途中で開けてはならぬ扉に行き当たりそうな暗い予感にとらわれては、思考を途切れさせることを繰り返す僕だった。
そろそろ本当に引越し祝いの観葉植物とやらをみつくろった方がいいかと思っていたら、進藤は既に引越していた。
行動が早い。棋院からの帰り道に二人だけになった時、不意にその話をされて驚いた。
「もう済んだのか?引越し……言ってくれれば手伝ったのに。」
「その細腕でか?お前、碁石より重いもん、持ったことあんの?」
「ばっ、馬鹿にするなっ!碁盤だって持てる!」
「ひゃはは〜、お前にしてはナイスボケ!……や、ワリイワリイ、冗談だって。運ぶもんだってちょびっとだったしな、電化製品とかボチボチ揃えてるとこ。」
「あ、じゃあ前に言っていた引っ越し祝い、今度持って行くよ。いつがいいかな?」
「ん〜、そうだな。お前、自分で持って来なくていいよ。花屋から送って。住所メールしとくから。」
歯切れの悪い口調に、心がざわつく。真っ先に新居に招待されるものと思っていたし、今だって僕の訪問を喜んでくれるとばかり思っていたのに。
ついこちらも、ザラザラした言い方になってしまった。
「僕に来て欲しくない理由でも?……まさか君、女性と一緒に住んでいるとか?」
あ…………そうか。自分の言葉に気が付かされる。
一人暮らしをすることによって進藤に女性の影が見え出すのではと、僕は懸念していたのだろう。いつしか僕らもそういう年齢に差し掛かっていたことを進藤の独立によって突き付けられ、それが僕の心を波立たせていたのだ。
進藤の方も僕の言葉に驚いて、目をむいていた。それからゆっくりと顔を歪ませて息を吐き出すと、僕から目を逸らして言った。
「そんなんじゃねーよ。女なんか俺が連れ込む訳ねーじゃん。一緒に住むなんてとんでもねー。そうじゃないって。そういうじゃなくて―――原因はお前だ。塔矢。」
「……は?」
「だから。来て欲しくない。お前一人では。……もし他の連中がいる時とか、誰か一緒に連れて来るんならいいけど。そうじゃなくて、お前一人で俺のアパートに来るな。ましてや泊まってくなんて絶対に駄目だ。」
「どういう意味だ。君、そんなに僕のこと…………。」
「これ以上言わないと、駄目?」
「嫌われているとは思ってなかった。いや、僕とはウマが合わないとか一緒にいても碁を打つ以外は興味もないとか、そういうことは感じなくもなかったが。でも……。」
―――悔しい。声を震わせてしまう自分が、本当に悔しかった。 進藤は、そんな僕の様子に慌てて大声を出した。
「あ〜っ!待って待って、塔矢!はあぁ……やっぱ言わないと通じないか。っしゃ……仕方ねえ。お前に誤解されても嫌だしな。」
誤解、だと?僕の解釈はどこか間違っているのか?
「あのな、塔矢。お前と二人きりでいたら俺、自信が無いわけ。お前に何かしちゃいそうで怖いっつか……泊まっていかれて一晩……なんて我慢するのは拷問だぜ。……こ、ここまで言ったらもう俺の言いたいこと―――わかるだろ?」
進藤の言う内容よりも、もっと雄弁に彼の気持ちを語っていたのは、まるで全力疾走した後のように上気した頬、しどろもどろの口調、そして……僕と目を合わせられないくらいはにかんだ表情だった。
その日から考え続けていた。
僕の答えは、保留になっている。それも、進藤からそう提案してくれたのだ。ちょうど名人への挑戦を控えた僕に、決着が着いてからでいい、それまではタイトル戦に専念してくれ、暫く忘れてくれ、でないと、告ったことを俺が後悔するから、と。
そして僕は勝った。もつれこんでの最終戦、僕は畑中名人からタイトルを奪取し初めてタイトルホルダーになったのだ。
一通り騒ぎがおさまってから、僕は進藤を誘った。すると彼は、これもまた意外な場所へと僕を連れ出した。
十一月のうす曇りのある日。僕らは港の見える場所に立つ、巨大観覧車のゴンドラの中にいた。
乗り込むとすぐに空が泣き始め、風はないものの、僕らのすぐ後にでも運転は中止されるかもしれないとぼんやり思った。
進藤はごく普通にしていた。特にはしゃぐ訳でもないが、沈んでいる風でもない。
でも、ゴンドラに乗り込む時、先に足を踏み入れた彼が自然に僕に手を差し述べた後に、はっとなってその手を引っ込めた仕草が妙に可愛いと思ってしまった。
男相手にんなことして、ご免、必要なかったよな、と。声はなかったが、クリクリとよく動く薄茶色の瞳が僕に謝っているかのようで、そんな彼をとても好ましいと思う。
「ねえ、進藤……どうして観覧車?」
暫くは眼下の景色を話題にしていた僕らだったが、頂上が近付くにつれ息苦しさが増す。物理的ではない、心理的な気詰まりだ。
僕が思い切って切り出した問いに、進藤は淡々と答えた。
「んー……もしさ、お前に断られるなら今日が最初で最後のデートってやつだろ?だったら、ちょっと恋人同士でないと二人では行かねーとこに行ってみようかなって。ベタだとは思ったけど……海とかなら、大勢でも行くかもしれねーじゃん。だから。」
それで―――
進藤の言う理由に、そうだ、彼は見た目の軽さから誤解されがちだが、思慮が浅い訳ではない。むしろ物事をよく考えてから行動に移していることもあるのだと、彼のその深さを誰よりも知り、惹かれている僕ではなかったか。
進藤は言い捨てて、そのまま無表情を装った横顔を僕に見せた。
観覧車の窓には、叩き付ける雨の道筋がいくつも生まれ、小さな河のようなそれは合流しながら下へと振り落とされていく。
雨の昼下がり。二人きりの観覧車。急に、眼下に広がる景色がジオラマか何かの作り物のように見えて、現実感が薄れた。
でももっと現実感がないのは、こんな狭い空間に、僕を好きだから二人きりになるのが辛いと告白してくれた進藤と一緒にいることであり、そして進藤が僕から断られることもあり得ると覚悟していたことだった。
「僕が断ると思ったのか?僕が、君という人間を拒めるとでも。」
「や、即答してくれなかったっつーことはさ、否定も考えられるってことだから。有頂天になりたくなかったし。俺、昔っからそうだけど、お前とのことはどこまでも慎重なんだ。」
多分、俺にとって最初で最後の…………だからさ―――
それは僕も同じだと、進藤の拗ねたような照れ隠しのような、ちょっと尖らせた唇、すがめた瞳を、静かに見返す。
「……進藤。僕は名人位を獲得して、多くの人に言われたし書かれた。塔矢アキラは父を超えた。父と公式戦を戦っても勝つだろう。父よりも強くなった……もっと色々あったかな?でも……。」
進藤も、息を詰めて僕を見ている。彼が、心を、全身を研ぎ澄ませて僕を感じようとしてくれているのが、痛いほどに伝わって来た。
「君が言ってくれた言葉は、どんな賞賛よりも嬉しかった。」
「え……俺?」
「そう。君は僕にこう言ってくれた。お前は塔矢先生の碁を、ちゃんと継いでいるんだな―――と。」
観覧車が、僅かだが揺らいだ。目の前の進藤が、感電したみたいにビクリと跳ねたからだ。
「継ぐという言葉は超えるとか勝つとか、そういう相対的な表現よりももっと深いと思う。僕にとって君にそう言われたことは……誰よりも僕を見続けてくれた君に言われたことは感動だったよ。」
「塔矢…………。」
彼が、僕の名前を震える声で呼んだ時、僕の胸の奥にもそれが風のように吹き抜けて、そこにある核を呆気なく震わせた。新しい関係へと踏み出す瞬間が来たことを、魂で感じる。
僕らの乗るゴンドラはもう、天辺を過ぎたのだろうか。雨脚が少し強くなっている。音が聞こえにくくなった。
「……そっか。でも、本当にそう感じたんだ。お世辞とかじゃなくて、さ。俺らって、勝ち星を連ねることよりも継いでくことの方が断然難しいじゃん?だから。俺もアイツの……俺の師匠の碁を引き継ぎたいと思ってる。それが目標だ。言葉にして誰かに言ったんはきっとこれが初めてだと思うけど。」
『俺の師匠』―――彼が僕に投げ掛けて来た言葉をしっかりと受け止め、僕はその相手が自分であって良かったと噛み締めた。
今なら。今ならさっきは引っ込められてしまった彼のそのさり気ない愛情に満ちた手を、僕が取りたい、離したくない、と。
強く思った―――
「これから引っ越し祝いを一緒に買いに行かないか?そして、それを持って君の部屋を訪ねたい。」
「これから?」
「うん、もう観覧車も終わりだ。次に僕が行きたいのは花屋で、その次は…………。」
「えっと、いいの?俺は前にお前に告った時の話、忘れてないし、今でも気持ち、変わってないし。今、お前が言った言葉、そのまんま受け取っちゃうよ?」
俺んちに来るんだな。二人きりでいることで、俺が限界を超えてもいいんだな?……進藤の声は掠れていた。
頷く代わりに差し出した僕の右手を、正面に坐る進藤が腕を目一杯伸ばして握ってくれた。
勿論、握手ではない。無理な体勢にも関わらず、指と指と絡ませるように繋がれたその手に、僕は己の選択した未来への惧れよりも遥かに大きな期待と喜びを感じていた―――
「あ、それ、ハロウィーンの?」
「うん、去年初めてここに来た時はもう過ぎていたからね。今年は何か置いて楽しみたかった。可愛いだろう?」
この時期になると、花屋の店先はオレンジと黒を基調としたハロウィーンのデコレーションで賑わう。愛嬌のある小さなかぼちゃが気持ちを和ませてくれて、僕はこの異国のイベントが好きだった。
僕が持って来たのは、かなり小ぶりのテラコッタに寄せ植えされたグリーンの合間に、黒猫や魔女の飾り、ミニかぼちゃが飾られているものだ。進藤は早速、キッチンカウンターに置いてくれた。
僕がこうして彼の部屋を訪れ、時々は観葉植物や花の鉢を置いていくようになってもうすぐ一年。植物がしかるべき土に根をはるように部屋には僕の私物が増え、共に選んだものが増え、進藤の部屋というよりも、二人の隠れ家のようになっている。
実際彼は、僕と鉢合わせしないようにとこの部屋には友人を極力呼ばないし、僕が地方仕事で泊まりに来ない時にはよく実家に戻る。
この部屋は僕との空間―――それが彼の認識のようだった。
嬉しい。彼の態度を素直に嬉しいと感じて、僕も甘えている。とことん甘えて、甘えついでに連泊しては碁と愛欲とに溺れる。
最初に抱き合った時から、不思議なくらいに相性は良かった。
同性同士なのだから、最後まではすることは無理もあるし精神的なバランスの問題もあるしで、そこは避けて通ってもいいと思っていたらしい進藤に対して、僕は成り行き次第だと気楽に構えていた。
そうなってから間もない、或る晩―――
抱き合っている最中に進藤の堅くなったものが僕の入り口を突付いた。意図した訳ではなかったそうだが、柔らかい皮膚の上で跳ねるように戯れた彼のものの感触に、僕はそこを収縮させると同時に彼の先端を刺激してしまったらしい。僕の二つの丸みで挟み込まれる格好になった彼のものは、一気に充血し質量を増し、僕を更に押し開こうとする。凶暴なまでの動き。欲の奔流。
初めての感覚に背中を弓なりに反らせ、あられもない声を上げた僕を見て彼の中に生まれたものは、真っ直ぐに僕へと注がれることでしか解消出来ない性質の衝動だった。
「……意外だった。お前、最初に俺のことをそう言ったじゃん?引っ越し祝いの話をした時。でも、お前だってこういうの買って来るし。俺がいない間も、葉っぱまで綺麗に拭いてくれてたよな!」
「ああ、あれは君が部屋の掃除を怠って埃を被らせているから。ディフェンバギアの折角のツヤが台無しだった。」
顎でしゃくって見せた先には、緑色に白い斑点の浮かんだ美しい葉を茂らせた植物が、人が佇むように立っている。
「ああ、アイツね。いい感じだよな。でもその名前はどうよ。お前ってよくフルネームで言えるよな〜、舌噛みそう。俺なんてアイツのことはバギって呼んでるぜ。……な?バギ。」
知っている。進藤はそれぞれにニックネームを付けて呼び易くしていることを。シンゴニュームのことはそのままシンゴと友達のように呼ぶし、カラーのようにハート型の紅い花を咲かせるアンスリュームのことはアンちゃんと呼び、女性視しているようだった。
僕が持ち込んだ緑に囲まれていると、この部屋の酸素はどこよりも濃い気がして来る。……とても楽に呼吸が出来るのだ。
そう言うと、進藤は風呂上りの裸の胸を上下させて笑った。そりゃ名人様は外では窮屈だろうよ?ここではゆっくり息をしろ、と。
実際、観覧車デートなどという男女のカップルだったら大っぴらに出来ることも、最初の日だけのこと。すぐに体も結ばれた僕らは少しでも二人きりになりたくて、いつもこの部屋に逃げ込んだ。
閉じた世界。濃密な空間。
でもそこが窮屈でないのは、この植物たちのお陰もあった。緑はここが外にも通じていることを感じさせ、心を開放してくれる。
「じゃあアイツらに見られながら……違うな、エッチは寝室だからお前のエロ〜い声を壁越しに聞かせながら、今夜はどう?」
「嫌な言い方だなぁ。君、オヤジ臭いぞ。」
「恥ずかしい?聞いてるのが植物でも。だってお前、この部屋でどんどん変わって来てる。……よくなってるだろ?」
お前を抱いてると、わかる―――お前の体が悦んでいること。その悦びが回を重ねる毎に、大きく膨らんでいること。
だって、俺の体が嫌というほど感じるから……そのこと。
俺が入ってる時、その形でしか得られない快感に体が馴染み、まるで条件反射のように俺を受け入れる前から全身が期待に震え、準備を整え。誘われるように入って行くと、柔らかくうごめくそこに俺の溜まった欲望は絡め取られ、絞り尽くされ…………
進藤の言葉なのか、僕の幻聴なのか。呪文にかかったかの如く。その通りに、僕の体はグングン熱を上げて彼を受け入れる。
足を開くことも、昂ぶったものを直に手にしてあげることも、嫌悪の対象ではあり得ない―――君が相手なら。
「んぁ……今日も、すげ……っ……お前ん中、イイ……。」
本当に寝室に行くことを許されず、リビングでたくさんの緑に見守られながらしていた。灯りは落としてくれたが、どうしてもここで抱きたいという彼に抗えず、ラグに転がされ、ずり上がることもソファで阻まれ。激しい愛撫にどこもかしこも濡れていく…………
「っは……ああぁ……僕も、イイ……どうしよう……あっ!」
長くなったその腕を伸ばして、進藤がソファの上からクッションを取ると、無理矢理浮かせた僕の腰の下に入れ込んだ。急に角度が変わって、それがどうしようもないくらい感じる形だったから、全身が痙攣したかのように震え、泣き出す寸前の声で喘いだ。
剥き出しになった咽喉に、進藤が吸い付く。張り詰めた肌の上で、彼が何度も名前を呼んだ。
とうや、とうや、とうや…………
大事そうに名前を呼ばれ、何かを注がれることで生命を輝かせるものがある。
それは進藤に手入れされる植物であり、僕自身だ―――
何度か越えた波も、もうやり過ごすのが苦しくなった。
必死で彼の顔を引き剥がし、唇を探る。最初から舌を差し込んで絡めるいやらしい口付けは、このまま達かせて欲しいという合図だ。制御出来ずに力のこもってしまう腕。溶け合うほどに、熱く深く繋がった恥ずかしい場所。全てで僕は、彼を締め上げる。
彼の口から、甘い呻きが漏れた。それでも無理矢理に唇を合わせ、強く吸い合ったまま。
程なく僕らは、共に頂きを見た…………
きっとこの部屋の緑はこれからも増える。……増やす、僕が。
事後に目にした植物がまるで僕とシンクロして悦んでいるように思えて、僕は彼らが作り出した酸素を肺いっぱいに吸いこんだ。
ここは―――僕だけの緑の楽園だなと、幸せを感じながら。