― あの蒼の彼方へ ―









 春のうららかな午後だった。
 庭の桜の花びらが碁盤を置いた縁側まで忍び込み、「桜も打ちたがってる」「お前の手に呆れてんだよー」「今、花びらの落ちた13の4の方が君よりマシだ」などと軽口を叩き合うのも、心が浮き立つように楽しかった。

 父が予定よりも早く所用から戻り、一緒に打とうという話になったのも、春という季節が仕組んだことだったのか。
 忙しくなった僕らと、中国に拠点を移した父。こんなにゆっくりした時間を過ごせるのも、本当に年単位での久しぶり、だった。



 それは、進藤と父が打っている最中に起きた。

 序盤から早い展開になり、僕ですら、複雑な局面を前に先が読み辛かった。細かい争いになった。一瞬たりとも気が抜けない。
 鳥のさえずりも、電話に出る母の笑い声も、周囲の音が次第に遠くなる。

 静かな。とても静かな場所へと、降りてゆく………
 進藤と父と。そして僕も、置いていかれないようにと。



 ふと。盤面に集中する余り気付くのが遅れたが、父の方からただならぬ雰囲気が漂って来た。
 顔を上げてそちらを見ると、父は静かに涙を零していた。

 息が止まりそうだった。
 生まれて初めて見る、父親の――――いや、塔矢行洋の、涙。
 身内が亡くなった時も、人前では見せなかったというのに。

 最初は涙だと信じられなかったが、どう見てもそれは、父の皺深い目元から頬を伝い、正座の膝へと落ちていき…
 その軌跡が、春の陽光の中で輝いていた。

 やがて進藤も気付いたらしい。
 彼の方が僕よりもうんと驚いたような、いや、むしろ、うろたえているような表情を見せた。

 言葉にしがたい空気が、我々三人を取り巻く。

 碁を打っているのに、石で語り合っているだけでなく、もっともっと深い、意識の奥底で繋がり合っているような、不思議な感覚。

 だからもう、盤面は意味をなさない。この先は、終局は、見切っている。
 そして三人三様の心を抱えながら、それぞれがどんな感情で満たされているのか、はっきりとした手触りを感じた。

 父は歓喜に震えていた。
 その涙が人生で数度、経験出来るか出来ないかの大切な涙であることを、皆が悟った。



「負けました」

 ゆっくりと頭を上げた父の顔が、まるで数十年の時を巻き戻したかのように若返って見えた。ほんの一瞬だったが、囲碁雑誌の写真でしか知らない、青年期の塔矢行洋の面影に重なった。

「もう、ですか?」

 進藤がおずおずと訊ねる。

「君には見えているだろう。君は間違うまい。あの者が間違わないのと同じように、君は間違わない」
「……」

 父は続けた。

「進藤君。今、私は君ではなく、あの者と打っているような錯覚を覚えた。…いや、これは彼の碁だった。だからこそ、君は彼を超えたのかもしれない――――」

 父の言葉は、岩肌に清水が染み込むように少しずつ僕らの魂を湿らせ、隙間なく覆ってゆく。
 全てを理解した時、本当に心だけでなく、全身が震えた。
 父にとってだけではなく、進藤にとっても、僕にとっても、それは大切な出来事だった。

 進藤が静かに頭を下げありがとうございましたと言うのを、父が素晴らしかったと言うのを、僕はぼんやりと聞いていた。
 呆然としているうちに父と進藤は検討を始めたらしかったが、僕はまるでフワフワと夢の中にいるみたいだった。どうやってその場を離れ、自室に戻ったのか。覚えていない。



 我に返ったのは、僕の部屋の襖越しに進藤の声がした時だ。

「どしたん?気分でも悪いのか?」
「ちがっ…」
「塔矢?」
「っるさ…」
「え、ええっ…まさかお前も…」
「だからうる、さっ…僕に、構うなっ…」
「ちょっ!入れて、塔矢!」

 僕の部屋は鍵がかからない和室だ。進藤が強引に開けようとすれば抵抗出来ず、結局彼を招き入れた。

 有無をも言わさず抱き締められた。僕も彼に縋り付く。

「俺…親子、いっぺんに泣かせちゃった?」
「泣いて、なんか…ないっ…っく…」
「もー、そういう意地っ張りなとこ、昔っから変わんねえ」

 でも、そういうトコも大好き、と。甘ったるい声が、僕を刺激した。

「君がっ…父とあんな碁を、打つから…君の相手が、僕じゃなく、て…悔し…ぃー…僕が、いつも、いつだって、君とっ…」

 ドンと、一回その胸を拳で叩くと、後は止められなかった。

 何度も彼の胸や腕を叩きながら、しゃくり上げる僕。
 理不尽な僕の暴走を受け止めながら、静かに背中を撫でる進藤。

 もういい大人なのに、父と進藤が打つことだって何度もあったのに、僕は溢れかえる感情の混沌ぶりと激しさに、自分で自分が流されそうで、恐ろしくて、進藤にぶつかって行くことで耐えていたのかもしれない。

「…お前さ、ほんとは逆じゃねえの?俺の対局相手になりたいんじゃなくってさ、親父さんと自分がああいう碁を打ちたいって…」

 ドンッ!!

 力いっぱい叩いた。

「全く!君は遠慮がないな!…いやっ、無神経だ!」
「ってえよ!この馬鹿力!」
「僕は今、メチャクチャなんだから!しょうがないだろう!」
「わかってるさ、この野郎!しょうがねえは、こっちのセリフだっ…まだ俺たち二人じゃ、あんな碁は打てないって認めるしか、ねえんならっ…」

 骨が折れそうなくらい、抱き締められた。
 そこにどんな嵐が吹き荒れていようと、彼は僕から逃げないのだ。もっともっと、僕に近くなろうとする。躊躇いもなく嵐のド真ん中に飛び込んで来る。

 情け容赦のない関係だ。
 勝負の世界で凌ぎを削る以上、甘さなど徹底的に入り込む隙のない時もある。
 今、彼は僕の体を抱いて慰めているように見えて、言っていることは厳しい。嘘や誤魔化しが一切通用しない。

 ああぁ…そうだ。
 だから僕も、そんな君が好きだ。誰も代わりになれない。世界でただひとりの人。

 そのことを認めた途端、僕の嵐はおさまってゆく…



「んー、わかっちゃいるけど…お前に不謹慎って言われそうだけど…」
「…?」
「こうして抱いてると、こんまんまお前を裸にして、気持ちイイこと、してえ…」

 君こそ馬鹿だと言いかけた時、襖の外から咳払いがした。父だ。

「…進藤君。アキラ」
「はいっ」「はい」
「私は疲れたから部屋で休むよ」
「はい…」
「進藤君。開けなくていいから、そのまま襖越しに聞きなさい」

 僕らはそっと腕を解き、父の言葉を待った。

「二度と、私は君と打つことはないだろう。今の一局で、十分だ」
「えっ………せ、先生?」
「君はこれから、アキラと打ちなさい」
「お父さん…」

 「これから」というのが、こののち、「一生をかけて」の意味であることは容易に察せられた。

「君たち二人は、もっと先へ行くのだ。あの者と私でも届かなかった、そこへ。…君たちには時間がある」

 お父さん!!

 …叫びそうになった僕の手を、進藤が強く握った。
 痛いくらいに握り締めて来る彼の顔を見ると、彼もまた大きな瞳を潤ませている。

 胸が壊れそうだった。



 ありがとう…

 父は、最後にそう言った。
 それはおそらく、全てに対しての感謝の念を表していたのだろう。

 命あること。碁を打てること。打ちたい相手に巡り会えたこと。満足のいく一局を打てたこと。続く者たちを信頼出来ること。
 それら、全てに対して――――

 僕は、塔矢行洋の涙を見ることの出来る、その「ありがとう」を聞くことの出来る、そんな存在に生まれて来れて良かった。
 塔矢行洋の息子で、良かった…

 僕の声なき声を、進藤も聞いていただろう。

 父が去った後、僕らはもう一度僕の部屋で静かに抱き合い、同じ想いを分かち合ったのだった。












 それから数ヵ月後、父は他界した。
 言葉通り、あの春の日からのち、父と進藤は打つことはなかった。

 巡りあわせと言ってしまえばそれまでだが、父にとっては本当にあの一局で十分だったのだ。



「今頃、天国でアイツが両手を広げて待ってるぜ。先生と打ちたくて打ちたくて、待ちくたびれてる筈だもん」
「そうか…それは良かった。父も退屈しないな」
「…あっ、ご免!肉親のお前にとっちゃ、こんな言い方…」

 いいんだよ、父は天寿を全うした、誰が見ても、棋士として人として、幸せな人生だった…

 僕らはどちらからともなく、空を見上げた。

 蒼い、蒼い空は、どこまでも高く、広く、果てしなく続き――――石の音が響いたような気がしたのも、幻聴だったのだろう………





















ほんの数回の対局でも、全てを判り合える相手がいる。
きっと佐為と塔矢行洋もそうだったのだと思います。

私にとって蒼は純粋さの象徴。繊細で、混じりけのないもの。
ヒカルとアキラの頭上には、いつもこんな美しい蒼さが広がっているといいなあ・・・

NOVEL