―  涙が教えてくれること ―







目が覚めて真っ先に「ああ、今日は…」と思うのも、もう何回目だ?

今年もどことなく体が重い。
いや、心が重たいから体も重石を抱えたみたいになるんだ。

年々、この日以外の日常ではアイツのことを思い出す回数は減っていると、俺だって気付いている。
だからその分、この日になると急に重たくなるのかもしれない。

…あ、ヤバイな…言葉にして意識すれば、重苦しい感じが胸の痛みを誘う…

忘れてはいない。
忘れられない。

だけどふと…

あれは本当にあったことだろうか?俺の夢だったんじゃないか?

有り得ない考えが俺の胸を心許なくざわめかせ、足元をどんどん砂地に変える。
グズグズと崩れ落ちてゆくその場所に、どうやって縋り付けばいい?

だって。
だって。
だって。

アイツの思い出を語り合う人間は、誰一人としていない―――









だから今日、碁会所で塔矢の並べている棋譜を見た途端、俺は固まった。白と黒で埋められ、俺に語り掛けて来るようなその碁盤を見下ろしたまま、動けなくなった。

「進藤?遅かったな。何かあったのか?顔色が…」
「……」

塔矢が俺を心配そうに見ているのは感じたが、言葉が出ない。
見ればいつの、どの対局か、俺にはすぐわかった―――アイツが塔矢と最初に打った碁だ。

「…それ…」

やっと搾り出した俺の声は、情けないくらい掠れていた。

「本当にどうしたんだ、進藤?…あ、悪かったかな、これを並べて。今朝は妙にこの碁が思い出されて、並べずにはいられなかった…」

塔矢の穏やかだけれど嬉しそうな声が、不思議に遠くから聞える。
俺は、塔矢に向かって首を振るだけで精一杯だった。



―――馬鹿野郎。
言葉になんか出来るか。死ぬほど驚かせやがって。
どうして、今日、この日に、お前はこれを並べて、そしてさも幸せそうにしているんだ?



塔矢が石を崩そうと手を伸ばしたのに気付いた俺は、「止めろっ!」と叫んでその腕を掴んだ。
まだ店を開ける前で、二人だけしかいなかった。

「しんっ…」
「あ、ごめっ…痛かった?」

塔矢の腕を離し、その目を見る。
ただならぬことが起こっているのではと、塔矢の俺を見る目も真剣そのもの…黒々とした瞳の奥の光は、俺を大切に想っているのだと伝えて来る。

塔矢の存在が、俺に力を注いでくれる。
塔矢がこの日の意味を知っている訳でも、俺の気持ちを推し量った訳でもないのはわかっているから。
ただ心の命じるまま、この棋譜を今日の俺に見せてくれたことに、感謝、感謝、感謝…

「…まだ、壊さないでくれ。お前はこれを何度も並べたかもしれない。でも、今日、俺の前でそうしてくれたこと…どんな意味があるのか、お前は何も知らなくても…でも…」
「進藤…」



―――アイツはいた…間違いなく、俺の隣で打っていた。
今の俺でもこんな碁はまだ打てない。今の塔矢だって、これを逆転は出来ないだろう。

そんなこと俺が一番わかっているのに、時々夢みたいな気分に襲われる。

人は、自分だけがわかっていればいいことでも、時にそれだけでは不安になる生き物なんだな。
それは俺がこの世を生き、毎日変わっていくことと、無関係じゃない。
だけど変わって行くことは止められないし、変わることは必要だとも思うから―――



「お前はこの碁を覚えていて…これからも並べてくれるんだろ…きっと、そうしてくれる…」
「……」

自分でも何をどう言いたいのか、わからない。大体、口にしていいことなのかもわからない。ましてや、塔矢がどう思っているかなんて、わからない………
まるで、地震のせいで心ン中の引き出しが飛び出して、中身までグチャグチャになっちゃったみたいだ。

「―――だから俺は、お前を…」

その先は、口にしてはいけない。そのことだけは、よくわかった。
俺の心の中に芽吹いたその想いこそ、誰に知られることもなく咲き続ける、永遠に枯れない花のままでいい。

「…あ?」

塔矢の手がそっと伸びて、ハンカチを渡してくれた。
俺の目から溢れて溢れて止まらない涙が足元にポタポタと落ちて、そのうち水溜りを作るんじゃないかと恐ろしくなったと塔矢が笑ったのは、後のことだ。
どうにも制御出来ない感情の波が、何度も何度も俺を頭からズブ濡れにして行くから、その日の俺は馬鹿みたいに泣き続けた………






―――数年後。
アイツと塔矢が打った一局を引っ繰り返す手を塔矢が思いついた時、塔矢と俺は一緒になって涙を流した。
それでもそれが終わりじゃない、そこから更に未来に繋げていくんだと感慨深げに呟いた塔矢の顔を、俺は忘れられない。
俺だけでなく塔矢も泣いたのは、その日が初めてだった。



すっかり大人になった俺たちは、もう人前だろうとそうでなかろうと、泣くことはなくなっていた。
それでも「5月5日」だけは二人で打ちながら、それぞれの想いに静かに頬を濡らすことがあった。哀しみでも追憶でもない、ただひたすら有り難いという想いを深めるだけの―――涙。

その日だけは、白と黒の世界を司る神様が俺たちの涙の栓を壊してくれるのだろうと、目に見えない、けれど大きくて侵し難い力の前で、俺たち二人は幸せを噛み締めるようになったのだ。















このヒカルは普段私が書くヒカルにしてはナイーブだな〜。
ヒカアキ者としては、ヒカルはあまりクヨクヨしない、全てを乗り越えつつある包容力のある男がいいのですが
時にはヒカルだってアキラに助けられることもあるだろうし、互いに目に見えない部分で支えあっているのだとも思います。
この二人は相手への恋慕を秘めたまま一生を終える、そういう二人のような気もしますね。
そしてそれもまた、ひとつの幸せの形だとも・・・・・

(2010年 春 紫里)


NOVEL