~〜la gelosia〜
一部抜粋です。
やがて終電の時間が迫り、女性たちは帰って行った。
ドアが閉まるや否や、小さな溜息のようなものが聞こえ、つられるようにアキラも苦笑する。
「よっぽどホッとしたのか?」
「…人が悪いですね。貴方だってそうでしょう?」
「ははっ…この店にしては珍しい客層だったな」
「お得意様のお嬢さんとそのお友達だそうで、お喋り好きだから少々騒がしいかもしれないというのは、お母様からご予約のお電話があった時点で伺ってはいたんです。…失礼しました。落ち着かない想いをさせましたね」
軽く頭を下げた彼は、少しだけ疲れているようにも見えた。
客商売は客を選べないのが基本だ。
それでもこの店は紹介のみの完全予約制だから、客層も安定しているのだろう。
アキラは、改めて彼の仕事の大変さを思う。
碁打ちという仕事はかなり特殊で、職業という側面以上に重たい使命があるが、こうして社会人としての自分を振り返れば、恵まれているとつくづく思う。
「大変だった?」
そう訊いたのも、特に狙いがあってのことではない。
「何がです? 賑やかだったことですか? 料理の匂いも消えてしまいそうなくらい、香水がきつかったことですか?」
彼は手際よく片付けながら、さもどうでも良さそうな素振りで言う。
普段は好ましい彼の態度が、何故だかその夜のアキラには小憎らしく思え…言うつもりのなかったことを口にしていた。
「あの中の一人が、興味を持っていただろう?」
料理ではなく、君自身に―――
自分でもはっとするほど、声に皮肉っぽいニュアンスが混じっていた。
「しまった」ととっさに思ったが、後の祭りだ。
ゆっくりと顔を上げた彼の瞳とぶつかる。目を逸らすことは出来なかった。アキラにだってプライドはあるし、彼から逃げたくはない。
仕事モードだったシェフの表情が、アキラのよく知る、欲望を覗かせた牡のものに変わり始める…
ゆっくりと見せ付けるように手を拭うと、彼はその手をカウンター越しにアキラへと伸ばした。切り揃えられた黒髪と、白い頬との間にしなやかに滑り込んで来た手は、まだひんやりと冷たい。
一度だけ肩を弾ませたアキラだったが、視線はしっかりと彼に結んだままだ。
「嫉妬? 貴方にもそんな感情、あるんだ? ふうん…」
何て意地の悪い言い方だと思うものの、それを口にして抗議するのも癪に障る。
「嫉妬…嫉妬だって? 僕らの間に、そんな単語が存在したか?」
馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに、口端を引き上げただけでアキラが笑うと、彼も負けてはいなかった。
「見てよ?」
何を? …とアキラが訝しげに目を見開いたその真ん前に、たった今までアキラの頬を撫でていた掌が突き出された。
薄くて見え難いが、そこにはボールペンか何かで走り書きされた数字が並んでいた。
「貴方に触れる手だから丁寧に洗ったけど、まだ少し読めるだろう? 会計の時、強引にさ…」
電話番号なのだとわかった途端、アキラの頭に血が昇った。
目の前で広げられた手を、素早い動作で跳ね除ける。
「った!」
乱暴に払われた彼の腕はカウンターにぶつかり、痛そうな声が上がった。
「あっ、すまない!」
今度はその手を掴み、もう一度消えかけた数字を見ると、アキラはその部分に唇を押し当てた。
「えっ…あ、な………ッ!」
予想外の展開に驚いたのは、彼だけではない。アキラ自身も、自分で自分に驚いている。
それでも引き返す気はなかった。
唇を割って突き出させた舌で、彼の掌を舐めた。まるで舌を使って汚れをこそげ落とそうとするみたいに、ザリザリと遠慮なしに舐めた。
「くすぐったいな…貴方、猫みたいだ…」
無心で彼の掌に舌を這わすアキラは、彼の目にどう映っただろう…
アキラの伏せた睫毛が揺れるのをしばし堪能していたらしい彼は、もう十分だろうとその頭を引き剥がした。
「消したかった? この番号」
「別に…」
「俺がかける訳ないでしょう。店の客に手を出したりするもんか」
彼がクスッ…と、鼻で笑う。
「じゃあ、僕は?」
「だから貴方が最初で最後だ」
「本当かな」
「信じないならそれでもいいけど。…店で俺が触るのは、鍋と包丁と食材以外、貴方だけだよ」
「鍋釜と同列なのか、僕は」
すると彼は目を細め、優しい声を出した。
「いつまで拗ねてるの? 今夜の貴方は、やけに可愛い…」
「どっちが? 僕にその手を見せ付けたのはどういうつもりだ…君の方こそ、僕が妬けばいいとでも?」