― その日の君は ―
目が覚めたら、温もりが消えていた。
慌てて起き出して時計を見ると、既に日付が変わって―――5月5日になっていた。
「…ぁ、ご免…起しちゃった?」
「アキラッ!?どした…何かあった?」
「いや、夜中になる前には帰ろうと思ってたんだけど、ちょっと遅れたな。君はまた寝てくれ」
「ちょ、ちょっと待って!何で?」
そこには、すっかり服を着込んで帰り支度の塔矢アキラがいた。
さっきまで…
荒い息遣いと泣いているような悲鳴と、溢れる体液を混じり合わせ、熱い全身を絡ませ合っていたのが嘘みてえ…
どうして―――あっという間に、そんな隙のない格好に戻れるんだ?
俺はベッドから手を伸ばすと、半ば乱暴にアキラの細い手首を掴んだ。
「ちゃんと説明しろよ。俺のせい?何か…マズイことでもした?」
「違うよ。そうじゃない。もう5月5日だろう?」
「だからっ!どうして5日だと……え?」
「君、昔っから5日は大切な日だろう?北斗杯が終わってからは、一度も一緒にいたことがなかった。勿論、どちらかが仕事のこともあったけど。…多分、君は一人でいたいんだろうと思ったんだ」
…だから。
今年も前日の4日に会って、泊まらないで帰ろうと決めていた。
その黒々と揺れる瞳には、これっぽっちの嘘はないように思えた。
コイツ…真剣に言ってるんだ―――今日は俺を一人にしようと。それが俺の望みに違いないと。
俺は深いため息をついてから、そっとその腕を引いた―――それが俺の答えだから。
アキラの上半身が崩れて、ベッドの端に腰掛ける格好になった。
驚いた恋人の顔が、俺の目の前に迫る。
「バカだなぁ…だからお前、昨日は早くからやりたがったの?食事もそこそこに誘って来るからさぁ…俺、舞い上がって頑張っちゃったよ…頑張り過ぎて、すぐ沈没しちまった…」
「べ、別にそんなんじゃ…離してくれ、ヒカル…」
「そうか、付き合い初めて最初の5月5日だもんな。お前なりに気を遣ってくれたんだな」
「いや、そういうんじゃ…だって、僕は君に自由に生きて欲しい。今日を一緒に過ごせないことを、怒ってるのでも拗ねてるのでもないんだ…ありのままの君が大事だから…」
照れ臭そうに俯いて呟くアキラは、とても綺麗だった。夜目にも頬が染まるのがわかる。
愛しい…果てしなく愛しいと思う………
俺は堪え切れずに裸のままで、アキラの体を抱き締めた。
石鹸の匂いと、まだ拭い切れない濃い夜の残り香とが入り混じって、鼻の奥をツン…と痛くさせる。
そのまま涙になりそうで、もっと強く、深く、アキラを抱いた。
「今夜はこのまま一緒にいて…夜が明けても、ずっと一緒に…5月5日の俺の過ごし方を―――お前にも知って欲しい…」
「ヒカ、ル…本当に、いいのか?」
「いいもなにも…そうして。お願い。してくれないと泣き出すぞ。喚いて暴れるぞ?」
笑い出した体を通して、震えが伝わって来る。
それからアキラは、俺の体にぎゅうっ…としがみ付いて来た。
泣き出しそうな自分を必死で抑えいるんだとわかったけど、どうしてあげることも出来ない。
だって俺も…
静かに頬を伝い始めた雫を止めることなんか、もう出来なかったから―――
(2006年 5月5日)
― 見守られて ―
ドアを開けた途端、フワ…と甘い香りが流れて来た。俺は玄関先で手を止めて息を吸う。深く、深く。
「おかえり」
部屋の置くから聞こえたのは、恋人の静かな声。
でも、ほんのちょっぴり…ちょっぴりだけどいつもより上ずっている…と思ったのは、気のせいじゃないだろうな。
「ただいま…って―――スッゲェ…これ、お前が?」
「うん。勝手に花瓶まで用意してご免」
「何謝ってんだよ!ありがとなー、アキラ。…いや、マジ、びっくりしたけど…」
「うん…」
…あ、やっぱ照れてる?
あからさまにじゃないけど、目を合わせない。唇をぎゅっと結んでいるのも口元を緩ませないため、だろ?
俺の住むこのマンションの部屋は、半分はアキラの部屋みたいなもんだ。半同棲ってやつ。
留守を預かるアキラは基本的には実家に寝泊りして、時々俺の部屋に泊まりに来る。直接対局もあったりする俺たちには、それくらいが丁度いい距離感かもしれない。
アキラがここに来るのはお互いの予定次第のことが多い。
俺はいつでもOKって言ってるんだけどさ、お堅いコイツは俺たちの両方が、或いはどちらか片方が次の日休みだとか、誕生日なんかの大切な日とか、割合キッチリしている。
そうそう…どちらかが出張でしばらく会えないことがわかっている時も、どんなに遅くなってもほんの少しの時間でも、会いに来てくれたりするから、コイツってば見た目以上に可愛いなぁ…って思う。
俺は持って帰ったアレンジメントの籠を、アキラが飾ってくれた豪華な花の横に置いた。
「今日は来るって思ってた」
「どうして?」
「この日は毎年、打つじゃん」
「…そうか」
「それにしてもこの花、俺の買って来た方が霞んじゃうくらい、スゲエなー。やっぱお前のセレクト?」
「いや、お店の人に頼んだよ。大体の大きさを伝えてお任せしますって」
「じゃあ、お前本人のイメージだ」
「えっ…僕の?」
「そう。もしも俺が花屋で客からそんなことを言われたら、目の前にいるお前のイメージで作る」
「なるほど…いやっ、まさか…」
「綺麗じゃん。それでいて…品がある感じ?うん、やっぱお前っぽい」
「ご免…そんなつもりはなかった」
「あっ、また謝る〜、そんな必要ないのにさ」
「だって…僕のイメージなんて…」
「俺は好きだよ。スゲエ、綺麗。俺こそご免って気分。綺麗って言葉しか浮かばねーんだもん!ああ、こんな時イラッと来るよな、もっと上手に言えたらって!」
「そんなこと…君の気持ちは十分伝わるよ」
「そう?ほんとにそう?じゃあ俺がこれを気に入ってることも、めちゃくちゃ嬉しいことも…ちゃんとわかってくれてんの?」
椅子に掛けていたアキラの腕を引き、立ち上がらせた。素直に従う体は、そのまま俺の腕の中にやって来てはスッポリとおさまる。
肩にアキラの髪の毛がサラサラと零れ落ちるだけで、俺の胸は喜びに震えた。
「聞かないのか?僕が今日、花を買って来た理由」
「うーん…俺に聞いて欲しい?っつかお前の方が言いたいこと、あるんじゃね?」
そう言うと、諦めたような小さな溜息が聞こえた。
その躊躇いや余裕の無さすらも愛しく思えて、俺は甘えるように鼻先をアキラの髪に埋めて動かした。
「打つ?」
アキラのことだから打てば気持ちも落ち着いて話したくなるんじゃないかって、本当にそう思ったんだ。
「いや…待って。今は打つよりも先に―――」
えっ…と俺が驚いているうちに、アキラは唇を重ねて来た。
濡れた舌先が突くから、反射的に迎え入れてそのままキュッ…と吸ってしまう。角度を変えながら深く舌を絡ませると、いきなりにも関わらず体はすぐにもその気になりそうだった。
ヤバ…ヤバいって、こんなディープなキス…
俺だって打つよりこのままベッドに引き摺って行って裸にしちゃいたくなるよ…お前のこと!
「ヒカル…今年から、僕もこの日に花を買って来てもいいだろうか?」
「…えっ、まさか…それがお前の言いたかったこと?」
「ん…今ので勇気が出たかな?ははは…」
笑い声には、まだ照れが混じっているように感じられた。
碁じゃなくて、キスで勇気をもらう―――そんなことを言う塔矢アキラが、俺はもっともっと愛しくなった。笑顔になるのを止められない。
「なぁんだ、そんなことか!」
「そんなことって…僕なりにドキドキしていたんだぞ?」
「へえ、お前みたいな鋼鉄の心臓でもドキドキすることなんてあるんだー?」
「ヒカル!」
ちょっとからかい過ぎたかな?
軽く睨むような目付きも、とてもいい。美人はどんな表情をしてもサマになる。
俺は暴れるアキラの上半身をもう一度、しっかりと抱き締めた。
「そんなんいいに決まってる。決まってるじゃんか!…っつか来年からは一緒に花屋に行こうぜ?んで、二人でああでもない、こうでもないって揉めながら選ぶんだ」
「うん…」
「アイツのイメージを伝えて、そういう花を見繕ってもらうのもいいかなぁ…」
俺の言葉に、腕の中のアキラが反応した。僅かだけど、体が強張った気がする。
アキラのこの日までの長い長い緊張を思うと、それにもまた、ああ、そうか…と、胸をつかれて。
俺はその背中を今の自分に出来る限りの優しさで、何度も何度も撫でてやった。
他人の領域に踏み込むことは難しい。こんなガキの俺だって、それはよく知っている。
アキラが繊細な心をもって俺の秘密を尊重してくれていることを、俺はわかっていた。何年も前から…多分、付き合い始める前からわかっていた。
一人暮らしを始めてからずっとこの日には、いつもは殺風景なこの部屋に花を飾る。
そしてその花の横で、塔矢と打つ。
それを儀式のように続けて来たんだから、何かあると思わない訳はない。ましてや5月5日じゃあな…
だからアキラが今日の話題に触れることをどれだけ慎重に考えていたかと想像すれば、それはそのままアキラの俺に対する愛情の深さに繋がる気がした。
有難いと思った。こんな俺に黙って付き合ってくれる、誰よりも大切な存在に心から感謝した。
しばらく抱き締め合った後、俺たちは目と目を合わせた。アキラの切なげな黒い瞳が、俺の弱い部分をくすぐる。
「…どうする?俺もどっちかっつーと打つより先に…」
そこまで言ったところで、アキラが俺の口に触れるようにして人差し指を立てた。
「今度は打ちたい。…いつもね、この日は二人きりで打っても二人きりじゃない気がしていたんだ―――」
こんな大切な日は、少しでも長く打っていよう…打っていたい…
アキラの言葉はやっぱり俺の一番弱い部分を優しく掠めていって、俺を泣かせた。
しばらくは碁盤に向かえないほど、男泣きをさせやがった。
来年の5月5日からは、二人で花を買いに行こう。二人で選んだ花を飾ろう。
そしてその横で、お前と打とう。
…いや、花と、密かに見守ってくれているらしいアイツの、横で。
打とう―――
(2008年 5月5日)