22.見た目の幸福
もう何度足を運んだことだろう、この美術館へ。
展示の順路もすっかり覚えるくらいは通ったということだ。
照明を落とした展示室の中。
常設展示の方は静まり返り、平日の午後の中途半端な時間にはいつもと変わらず人気がない。
「この間もその絵を見ていらっしゃいましたよね?」
いきなり背後から声を掛けられ、振り向く。
知り合いに会ったのかと、一瞬にして血の気が引いた。
しかし。
お目当ての絵画の前で足をとめていた僕に話し掛けて来たのは、見知らぬ若い女性だった。
「あの…」
戸惑いが、僕を口ごもらせる。
「あ、ご免なさい!先日もここですれ違って…えっと、私がぶつかってバッグを落として、拾っていただいたんだけど…」
「…っ、あ、ああ…そう言えば…」
そんなことがあったと事実は思い出すが、相手の姿や顔を記憶していた訳では勿論ない。
こんな場所で派手にぶつかることなどないから、珍しいと印象に残っただけだ。
「驚かせてすみません。まさかまた、ここでお見掛けするなんて…偶然にビックリしちゃって」
つい声を掛けてご免なさい、と会釈する彼女とそこで別れても良かったのに。
その時、どうしてだかはわからないが、僕は会釈を返すのではなく微笑んでしまった。
「貴女もお好きな絵が?」
すると、その女性はパッと顔を輝かせた。
「ああ、やっぱり?貴方もお好きな絵にもう一度会いたくて?私もなんですよ」
――――いえ、「一度」、ではないんです。
ここに来てこの絵を眺めるのは、片手では足りないほどの回数なんです…
と、僕が口にすることはなかった。
その時の僕は「絵がお好きなんですか?」とごく一般的な言い方をせず、自分が特定の絵を見たくてここに来ていることを、見知らぬ相手に向かって仄めかすような表現をしてしまったことに少なからず驚いていたからだ。
その女性は不思議な人だった。
ほぼ初対面。僕の周りによくいるようなタイプでもない。
それでも彼女はスッ…と、僕の心に入り込んで来る「何か」を持っていたのは確かだ。
「この絵ですか?お好きなの…」
二人並んで目の前の絵画に視線を送りながら、彼女の問いに僕は素直に答えた。
「ええ…」
「美しい青年ですよね。いや、まだ少年なのかな?微妙な感じ…」
「似た人を知っているもので…いや、こんな顔をしているという訳ではありませんが、この絵から伝わって来るものが全体的に…」
「ああ、そうなんですね!そういう目をなさってる気がしました」
「そうですか?」
「あ、不躾なことを言ってすみません!真剣な目だと感じただけで…ほんと、私ってば失礼ですね」
「いえ、そんなことはないですよ。…貴女はどの絵が?」
その人は僕の見ていた絵の、すぐ隣を指した。
それは、家族の幸せそうな団欒を描いた200年ほど前の絵画だった。
「ご家族を思い出すのですか」
「ええ、見るからに幸せそうでしょう?私の家族も、こういう見た目にも幸福って形にこだわっていましたから」
この絵が、私の家族そのものだというのではないんです。
むしろ見た目にこだわる余りに、この絵とはかけ離れてしまったこともあった家族でしたが、この絵の世界が理想だったのかなと、今になって思うから――――
あまた有る絵画の中で、この一枚が彼女の心を捉えたその真相は実のところ僕には理解し得ない。
それでも、行きずりに近い彼女がこの絵に強く惹き付けられている感情の波は、すぐ横に立つ僕にもひたひたと流れ来るようだった…
「どうしても、もう一度見たくて。目録で見るんじゃなくて、実物を見たかったんです」
「わかりますよ。僕もじかに見たいからこうして来ています」
「ねえ…不思議ですよねえ…こんな大昔の絵に呼ばれるようにして、わざわざここまで来ちゃうなんて…。私ね、今日ここに来ることにしたら昨日の晩からワクワクして眠れなかったの。何を着て行こうかって、そんなことまで考えて」
ますます変ですよね?…と自嘲気味に小さく笑う彼女に向かって、僕はきっぱりと首を振った。
「僕も今日、急に時間が空いたんです。そしたら真っ先にここに足が向いて…ちょっとウキウキしていました」
「ふふっ…まるで恋人に会いに来るみたいですよね、私たち」
何の裏もない彼女の言葉に、僕は少しも動揺を見せることなく頷くことが出来た。
それからしばらく話をして、僕の方からその場を去った。
別れ際、彼女が物言いたげな目をしているような気がしたが、僕は何も言わなかったし聞きもしなかった。
また会うかもしれないし、これっきりかもしれない。
こういう場面でメールアドレスでも交換すれば、新しい人間関係が始まるのだろう。将来、彼女が僕にとって大切な存在にならないとも限らない。
いっそそうなれば、僕は楽になれるのだろうか――――
しかし、僕の自問に対する答は決まっていた。
人は楽になりたくて生きているのではないだろう。
あの絵に面影を重ねている彼のことを、僕は忘れることが出来ない。
彼自身に自由に会えないのなら、せめてこの絵に会いたいと焦がれるほどに彼を求めている。
彼は僕の気持ちなど気付かぬまま、いずれ誰かと結婚して家族を作り、文字通り絵に描いたような幸福な人生を送るだろう。
それでも僕は変わらない。
報われないからと言って断ち切れるほど、簡単なものじゃない。
一生秘め続けるしかなくても、僕は彼の傍で彼を想い続ける。
だから僕はきっとまた何度でも、あの絵を見に来るだろう。
彼に、会いに来るだろう………
美術館を出ると着信した。彼からだ。
『打たない?』
待って待って待って――――待ち侘びたその一言が、小さな画面の中で光っている。まるで、命を持つかのように。
彼は忙しい。僕の誘いにも、三度に一度くらいしか応えてくれない。メールの返信すら滞りがちだ。
それでもこうして僕らは繋がっていられると、確信出来る瞬間がある。
例えそれが僕が望んでいるような形ではないにしろ、僕は彼の近くにいることを許されているのだ。
返信をしようと指を動かした瞬間、胸の中にストン…と落ちて来るものがあった。
しっくりと馴染み、僕を内側から満たしていくその感情は幸福感以外の何ものでもない。
そうか…そうなんだ………
人の幸福なんて、見た目で測れるものじゃない。
見てわかるほどの幸福が全てだと、誰が言い切れる。
僕は今、幸せだ。
無機質な携帯を手の中で握り締め、そこにある幸福をリアルに噛み締めた後、僕は彼に返信を打ち始めた。
忘れられない芸術作品に巡り会えるというのもまた、幸せなことですね。
ヒカルは黒猫に「アキラ」と名付けてこっそり飼っているらしい。
アキラが絵画の中にヒカルを見るのとは少し違う面影の重ね方ですね(笑)
所詮、うちの二人は(隠れ)両思い――
いつか必ず、アキラのこの悲愴にも見える決意も意味を失い、二人はともに生きていくと信じます。
・・・例え誰に知られずとも。それは幸福の大きさに関係ないから。
(ブログの方にもちょこっと書いています)
NOVEL