― 絆 ―
「強い絆」(8)
「頑張れよ。」
対局前に出会った人には軽く言うし、言われるし。
勝ち負けのある僕たちの世界では、むしろ社交辞令にも近い言葉だ。
「頑張れよ。」
今日、対局前にすれ違った進藤にもそう言われ……
僕は強い違和感を感じた。何か引っ掛かる……
もしかしたら……初めて言われた?
これまで彼にそう言われたことは……一度もなかった?
――頑張れよ……
彼の声が僕の中で木霊する。
……するとどんどん胸が熱くなり、そこに大きな熱の塊を抱えたようになった。
そしてその熱は対局中も、確かに僕の中にあり続けた。
パチ。
誰に言われてもこんな風には感じない。
頑張れよ……なんて言葉は、僕に何の波紋も起さない。
パチ。
それなのに。
進藤ヒカルに言われるのはこんなにも特別で……
それがずっと僕の中に、前向きなエネルギーを生み出してくれるとは。
パチ。
言われなくても頑張るさ。絶対に勝ってみせる。この一局だけは死んでも落とせない。
パチ。
そこではっとなる。
そうか……今日がその一戦だから、進藤は初めて僕に……
パチ。
進藤ヒカルは碁に関して、どんな時も僕に甘い顔は見せない。
彼は僕にとっては一番辛口の批評家で、小さなことも見逃さない。
こてんぱんに言われる。
僕に、悔しさ故に唇を噛み締めさせる唯一の人物。
パチ。
――しかし
パチ。
同時に彼は真っ先に僕の棋譜を手に入れ、頭に叩き込み
僕の碁を誰よりも気に掛けてくれる。
会心の碁を打った時も
自分のことのように嬉しそうに「やるじゃん?」と笑ってくれる人物でもあるのだ。
パチ……
終局を迎えた僕を、珍しく進藤が待っていた。
「これでお前が挑戦者だ。やっとタイトル戦で戦える。」
「だから君、初めて僕に――頑張れよって?」
「は?」
「だってさっき、始まる前会った時…。」
「ええっ!俺、そんなこと言った!?」
「覚えてないのかっ!」
「…や、マジで言ったんか?俺…覚えてねえや…。」
「その様子だと…照れで嘘ついてる訳でもなさそうだな。」
僕は心底驚いて、進藤を見る。
本当に君は無意識で言ったのか……僕に頑張れと……
目の前の彼は、悔しそうに顔を歪めた。
子供っぽい表情だ。とても22歳のトップ棋士には見えない。
「ひゃーっ!俺、お前に頑張れってか?んなこと言うかよっ!」
「僕も驚いたよ。多分、君と知り合って初めてじゃないか?」
「そらあそうだ。俺、お前に頑張れなんて言う気、さらさらねえもん!」
「僕だって…そんな言葉、僕らの間には必要ないから。」
「…だろ?うざってーよ、んな意味のない言葉。お前はいつも全力だし、俺もだもんな。」
「確かに…君はいつも僕に対しては言いたい放題だけど
碁に関しては意味のあることしか言わないな…。」
最後は独り言のように、低く呟いた。
この闘争心剥き出しの男に無意識に頑張れと言わせたのは
僕がこの一戦を勝てば漸く僕らがタイトル戦をかけての7番勝負に挑めるからだ。
どちらもタイトルをとって約3年。
長いすれ違いを経て、ようやく頂上決戦を迎えることが決まった
――そういう大切な日だった。
「負けねえからな。最高の舞台で最高の碁を打ってやる。」
「それは僕のセリフだ。首を洗っておけ。」
「ジジくっせえこと言うなっ!」
明るく、眩しく、笑う進藤。
その笑顔を見詰めていると
僕の胸の熱い塊は碁盤を前にしている時とは違った種類のものへと
ゆっくりゆっくり形を変えてゆく……
彼と僕との関係がいつか遠くない将来、変貌することを予感しつつも。
その時を迎える前に
こうして彼と棋士として真剣に向き合える舞台を与えられたことを
何よりも僕は神に、深く厳かに感謝した――
「二人のゴール」(75)
上げハマを盤上に散らし、俺は頭を下げた。
終わった…長い長い、永遠にも思われた七番勝負が…
文字通り、死力を尽くした数ヶ月間だった。
途中で塔矢は胃炎になって点滴を打ちながらの日もあったし
夜ぐっすり眠れない俺は、ハンドル操作を誤まりそうになったこともあった。
顔を上げると塔矢の視線とぶつかる。
その黒目の奥には、到底言葉なんかで表せやしないものが揺れていた。
やっとここまで来たと思っていた…確かに始まる前はそう思ったんだ。
七番勝負の最終局――これがゴールだと。
でもさ、本当は違ったんだなぁ、塔矢…
この頂上決戦は単なる始まりでしかなかった。
食うか食われるか一生続く、お前と俺の真実の死闘の始まり――
そしてもう一つ…抑え切れない別の感情が俺たちを襲う。
「お前、今夜はここに泊まりだよな?――後で部屋…行ってもいい?」
検討を終え、人にもみくちゃにされ
それでもふと、エアポケットに落ちたみたいに二人きりになった瞬間
俺は塔矢の目を真っ直ぐに見詰めて、静かに言った。
終局の時にも見たその熱い瞳は、今、俺の想いを感じ取って違う色を見せる。
「待ってる…。」
――なあ、塔矢
俺さ、終局したあの瞬間、胸の奥でスタートのピストル音を聞いたんだ。
パーンッ!…て、すげえ勢いのある破裂音、体が跳ねてしまうくらいの…
走り出した運命はもう止められない。引き返せない。
例えそこが、最果ての地でも暗闇に閉ざされた極寒の地でも…孤独の地でも…
俺たちは走り出した。
二人だけのゴールに向けて
二人だけの一生続くイバラの道を――
タイトルの後ろの数字は、百題の番号です。
この二編は、最初から続きものとして書きました。
原点みたいな話だよなあ・・・と思います。
NOVEL